裄は短しタスキは長し

数種類のテーマを軸にその時の気分で書きます

2017-04-30 20:16:09.0 皇帝の橋

(あぁ、また画像が巨大化してそまった・・・) 

 

ご無沙汰しております。

 塩野七生「ローマ人の物語Ⅻ・迷走する帝国」の後半を総括するのは難儀なので、今回は「皇帝の橋」だけを取り上げることにした。

 「皇帝の橋」とは、三世紀の皇帝捕囚つまり皇帝ヴァレリアヌスが、ササン朝ペルシャ側に捕らわれ捕虜となったとき、皇帝とともに捕虜となったローマ軍団に、ペルシャ王シャプールが強制労働として課したインフラ工事によって建設された橋の一つである。建設された3本(どうでもいいが、橋の数え方は1本、2本でいいのだろうか?)のうち2本は度重なる洪水で崩壊してしまったが、残る一本は近代まで機能していたという。この橋がバンディ・カイザル、つまり「皇帝の橋」である。

 橋、と単純に書いたが、実際は「橋」と「水道橋」と「ダム」の機能を兼ね備えており、全長550メートル、遺跡となった橋脚41本のうち35本はなんと建設当時のオリジナル。シュスタールという街の郊外にあるそうだが、たぶん今は見に行けないところなのだろう。

 たとえ敵の利になろうとも、ローマの名に恥じない本格的で堅固なものを建ててやろうではないか、このようにでも考えなければやれなかったのではないか、身体の自由は奪えても、精神の自由までは奪うことはできない。そして、精神の自由が誰にも奪うことができないのは、それが自尊心に支えられている場合である。ローマの将兵たちは、自尊心の維持のために建設工事に従事したのではないか。塩野さんはこう述べている。

 度重なる洪水にも負けず、建ち続けること1700年。大した矜持である。この橋、現代の専門家が見ても、河底の活用方法、堅牢化のための工事、橋脚工事の的確さ、水の堰き止めと流出システムの合理性など、どれを取っても驚嘆に値するものだという。

 

2017-03-26 21:38:36.0 自分の自虐性を疑いつつ読む

 「ローマ人の物語Ⅻ・迷走する帝国」は、正直読んでいてしんどい。 

 帝国はフラヴィウス朝のあと、五賢帝時代をすっ飛ばしてカラカラ帝の治世に突入し、北方の蛮族侵入と非友好的なオリエントの新王国の台頭に手一杯となったローマは、度重なる暗殺と登位で皇帝が入れ替わる時代に入っている。美味しいところを端折ってローマ帝国の危機、混乱、迷走ぶりだけを読むことを楽しむ、というのがそもそも無理な話で、ひたすら「ここでやめるってのもね」という気持ちで読んでいる。 

 ただ、思い返せば第二次安倍政権発足前、日本も首相が何人も、辞職と就任で入れ替わった。考えてみれば交代劇で命を落とすか否か、以外はたいして違わなかったのかもしれない。 

 庶民としてトップの無能さを上から目線で批判しながら読むのは簡単だ。でもそれをやると、行間から歴代の皇帝たちの「じゃあ、お前やってみろよ!」 という悲痛な叫びが聞こえてくることもあり、「そうよね、頑張っている割に、効果上がんないよね」と、ついつい愚痴の聞き役のような合いの手を入れている自分を苦笑しながら読み進めている。

 

2017-03-11 21:21:30.0 甘いんだか辛いんだか

(帯の裏表紙部分)

 

 「ローマ人の物語Ⅷ・危機と克服」の後半は、フラヴィウス朝のヴェスパシアヌス帝、ティトゥス帝、ドミティアヌス帝が登場する。陰惨な内乱を終結させ、帝国の基盤を再度強化したヴェスパシアヌス帝。その前半生は父の補佐役として、登位からは度重なる自然災害への対処に、文字通り粉骨砕身したティトゥス帝。帝国の安全保障の要であり、ゆえに後世の安全保障の代名詞となるリメス(リメス・ゲルマニクス)の建設に着手したドミティアヌス帝。

 3人の皇帝の他にも、ヴェスパシアヌス帝の登位を全面的に支えたムキアヌス。(この方はまるで、「帝王の娘スベクヒャン」の衛士佐平ヘ・ネスクのようだ)「ユダヤ戦記」の著者ヨセフス・フラヴィウス。「インスティトゥーティオ・オラトリア」を著し、帝国の教育学体系を作ったクィンティリアヌスなど印象的な人材がたくさん登場する。

 ところで塩野さんはヴェスパシアヌス帝を一言で言うと「健全な常識人」だと評している。これは良いのだが、その一方で彼の外見の表現が面白い。

「頑丈な体の上に充分に膨らまなかったパンのような顔がのっている、一見しただけでも庶民的な風貌の持ち主だった」

 普通にパン、だけで十分だろうに、わざわざ「充分に膨らまなかった」という表現をつける必要があるんだろうか?

 他にも「治世が短ければ、誰だって善き皇帝でいられる」という同時代のローマ人のティトゥス評とか、ある大変皮肉屋の歴史家は、ドミティアヌス帝の次のネルヴァ帝を「五賢帝に加えられた理由は、トライアヌスを後継者に選んだ一事のみ」と評価していることなど、絶対手放しで褒めないところがバランス感覚の良さなのか、はたまた「持ち上げて落とす」評価が好きなだけだよね、と疑いたくなる文章が随所に登場する。

 

2017-03-03 23:38:24.0 アルタ・ライトを鼻で笑えるようになる塩野ワールドの凄さ

 「ローマ人の物語Ⅷ・危機と克服」はガルバ、オトー、ヴィテリウスの目まぐるしい交代劇と内乱の時期をやっと抜け出し、ようやくヴェスパシアヌス帝の即位までたどり着いた。

 内乱というのは本当に陰惨で、終息に導くのが難しい。資料としてタキトゥスの著作を読む塩野さんが「彼の筆がノッてない」と嘆くのと同様、私も塩野さんの著作を読みながら、何とも言えない閉塞感と疲労感に襲われた。ファンならばもっとスラスラ読み進まねばならないのだろうが、時代が時代ゆえ、ユリウス・カエサルの時代や五賢帝の時代のようなわけにはいかない。身も蓋もない言い方だが、読んでいると時折「これならネロの方がまだマシ」と思うことすらあった。

 一方、本の中の古代からニュース映像という現在に戻ってくると、アメリカ発のそれは、さながら映像化された小説の様相を呈している。

 先日は、アルタ・ライトという過激な白人至上主義者のスペンサーという男のインタビューを見た。「白人は世界で一番優秀な人種だから、マイノリティを排除するのは当然の権利だ。遠慮することはない。このご時世、差別され虐げられているのは白人のほうだ」というのが彼の主張のあらましだが、この危険な人種差別主義者は、トランプ政権発足以降、時代の寵児となりつつあるとのこと。

 普通だったら恐怖と怒りを感じるところだが、毎日少しずつ「ローマ人の物語」を読んでいると、テレビの前で映像のスペンサーくんに容易く突っ込みとダメ出しできるようになり、しまいには鼻で笑い飛ばせるようになる。

 だから塩野作品は止められないのだ。

 

2017-02-25 19:08:25.0 古代の三面記事に惑わされてはいけない

   塩野七生「ローマ人の物語Ⅶ・悪名高き皇帝たち」の後半の主役は、皇帝クラウディウスと皇帝ネロ。 

 この二人に言及するとき、必ず登場するのが、クラウディウス帝の最初の皇后メッサリーナと、次の皇后にして皇帝暗殺の首謀者にしてネロ帝の母アグリッピーナ。二人の皇帝は悪女の代名詞のような女性たちに翻弄される、情けなく、そして残虐な皇帝、という役どころが定番である。 

 塩野作品の醍醐味は、既存の歴史観-具体的にはタキトゥスやスヴェトニウスの個人の嗜好が協力に支配する歴史観やゴシップ偏重のエピソード選択-を徹底的に検証し、新しいローマ史観を構築して見せてくれるところだ。だから二人の皇帝が愚帝と暴君という月並みな人物評で切り捨てるのではなく、「彼らだって結構頑張っていたんだ」とか「そうおバカでもなかったんだ」という新しい歴史観を見せてもらえると思うとワクワクする。 

 また、「悪名高き皇帝」の失策の連続にも関わらず、ローマ帝国は壊滅的な打撃を受けることなく意外に盤石だったのはなぜなのか…そういうディテールを丹念に読ませてくれる。 

 

 だから、こういう著作を一通り読んだ後、永井路子さんの「歴史を騒がせた女たち・世界編」なんか読んじゃうと、うぇぇぇ、ってことになるのです。