裄は短しタスキは長し

数種類のテーマを軸にその時の気分で書きます

2017-11-24 23:24:33.0 昭和の少女はみなヴェルサイユを目指す

(画像は裏表紙。マリーアントワネットの寝室。)

 

 ディーヴァーを返した後、主人公の恋愛というめんどくさい要素に疲れてしまった私は新しく入った本の書架で妙なものを見つけた。 

 その本は背表紙ではなく、表紙を前面に向けて立てかけてあり、しかも表紙にタイトルの表記がない。ただ、その表紙は「鏡の間」と呼ばれる世界的に有名な部屋-部屋ではなく、回廊と呼ぶのが正しいらしい-の全景で、つまりタイトルをわざわざ表記しなくてもこれが「ヴェルサイユ宮殿」の写真集であることが一目瞭然、というわけだ。

 昭和の少女漫画の名作、と言えば、何といっても「ヴェルサイユのばら」(略してベルばら)である。

  私はかなりベルばらにハマった一人で、連載終了からずいぶん経ってから、岩波文庫のツヴァイク著「マリーアントワネット」も読んだ。だから舞台であるヴェルサイユ宮殿にも並々ならぬ興味があり、今までも雑誌の特集などを見つければ必ず目を通していたので、ここぞとばかりに手を伸ばした。

 序文によれば、ヴェルサイユ宮殿には公式カメラマンと呼ばれる、宮殿内のどこにでも入ることを許可された方が4人だけいて、今回の写真集は彼らが撮影した映像をもとに編集されている。だから、一般公開している絢爛豪華なエリアはより絢爛豪華に、そうではなくすっかりさびれてしまった観のある部屋もまた趣深くフィルムに収めているところが面白い。

 各頁の写真の下には、かなり詳しい注釈がついていて、誰が使っていた部屋だとか、誰が模様替えを指示したとか、これだけで結構ブルボン王家のトリビアが仕入れられる趣向となっている。先程書いた「模様替え」一つとっても、我々が行うカーテンやカバーリングを変えるなどといった、生易しいものではない。調度品はすべて新調、特注、自分の好みに合わせて絶対妥協はしない。大変な贅沢、浪費だが、多く人の懐が温かくなったことは容易に想像できる。もはや公共事業の域に達しているな、というのが率直な感想だ。

 史実によれば、フランス革命の発端は、ブルボン王家とフランス政府の財政破綻で、破綻の最大の原因は、マリーアントワネットの浪費ではなく、アメリカ独立戦争への参戦だという。たとえそれが事実だとしても、度重なる宮殿の改修工事はやりすぎだと思うが、あの場所に身を置いて、住む立場になってみれば、リーズナブルなお値段で、という感覚のほうが場違いなのかもしれない。

 あまりに美しく、トリビアが満載で読んでも面白い。筑摩書房さんよくぞここまで、と拍手を送りたい。ゆえに貸出期間の2週間、めいっぱい堪能しようと思ったが、難点が一つ。縦26.5cm×横37cm×厚さ3cmと巨大で、紙面が横長のため、置き場所に困り、結局1週間で返却した。

 

 

2017-11-09 21:36:09.0 「僕が殺した人と僕を殺した人」東山彰良

 

 はぁぁ・・・今回ばかりはいいタイトルが浮かびませんでした。

 

 写真集「ヴェルサイユ宮殿」を図書館に返却した時、東野圭吾の「マスカレード・ナイト」が入ってないかなと思いながら、は行の書架を見ていると、いつの間にか東山彰良のエリアに移動しており、そこで「僕が殺した人と僕を殺した人」を発見。先日新聞の書評で高かったことを思い出し借りることにした。 

 「流」の冒頭からやや時間が過ぎた80年代の台湾と、21世紀のデトロイト。二つの時空を行き来しながら物語は進む。台湾の4人の少年と、デトロイトで相まみえる連続殺人犯と弁護士。台湾の4人のうちの二人がデトロイトの二人なのだが、この4人が関わった事件が、その後の彼らの人生を大きく変え、30年後の再開に収束していく。 

 戦前の日本統治時代、国民軍の流れをくむ外省人と台湾人の対立、日本の漫画やアメリカの音楽やダンスなど、流れ込む海外のサブカルチャー。幾層もの時代の断面には、誰もが必ず懐かしい思いを抱く時代背景があり、ありとあらゆるものが分断してしまった現在進行形のアメリカがある。。あまりに固い彼らの絆と思い罪の意識ゆえに、彼らは30年間にわたって苦悩し続ける。何とも複雑な思いが残るラストだった。 

 

追記:憎まれっ子世に憚る。ゆえに胖子はここにも登場する

 

2017-10-28 21:22:40.0 盛り過ぎのプライベートが…

(東山彰良作「僕が殺した人と僕を殺した人」を楽しみにしていた方がいらっしゃったらごめんなさい。) 

 

 ディーヴァーのシリーズ2種類のうち、キャサリン・ダンスのシリーズ第4作「煽動者」は、いきなり番狂わせのエピソードから始まる。 

 尋問の達人キャサリン・ダンスが取り調べ対象者のキネシクスを見誤り、容疑者を取り逃がしてしまう。捜査チームを外され民事部へ飛ばされたダンスが担当したのが、地元で人気のライブハウスでのボヤ騒ぎと、それに伴う将棋倒しによる死亡事故。ところが捜査を進めていくと、これが事故ではなく、故意に仕組まれたパニックによる殺人事件であることが判明する。 

 未詳(ディーヴァーの作品では犯人をこう呼ぶ)の目的は?次々に容疑者が浮かび上がっては、ある者は容疑が晴れ、またある者は犯人に消され、同時に犯人が次々と仕掛けてくるパニックにダンスは翻弄されまくる。果たして彼女は再び捜査の第一線にカムバックできるのか?ネタバレになるが、ラストでこのシリーズでは最大級のどんでん返しが繰り出され「うわぁ、こんなのあり~」と驚愕する。 

 実を言うと、私はディーヴァー作品の3つのカテゴリーである、リンカーン・ライム、キャサリン・ダンス、ノンシリーズのうちキャサリン・ダンスが一番苦手である。理由は、ダンスのプライベートシーンに興味が持てないから。ダンスの子供たちや両親のエピソードは何とか我慢できるが、殊更彼女に「等身大のワーキング・ウーマン」を投影させる必要があるのか?と思う時が結構ある。特に男性の交友関係がめんどくさい。同僚と惹かれあおうが、シリコンバレーの天才と懇ろになろうがどうでもいいではないか。どうしても彼女に新しい出会いが必要なのか?とすら思えてくる。勿論、現実ならばいろんな成り行きがあるだろう。ただ、エンターテイメントとして本を読む立場からすると、ヒロインのホレたハレたは時に邪魔になる。ここもネタバレだが、ダンスは本作のラストでプロポーズされ、それを承諾する。そこも「えぇ、こんな綺麗すぎるオチはないよね」と失望した。

 

2017-10-19 21:21:45.0 カズオ・イシグロ特集5 「忘れられた巨人」

201511月)

 

 今秋書架を物色して歩く時、必ずカズオ・イシグロの「忘れられた巨人」が貸し出し可能か確認していたが、ひと月以上たって、ようやく書架に戻っているのを発見した。前作の短編集「夜想曲集」から6年、「わたしを離さないで」以来、実に10年ぶりの新作長編である。 

 アーサー王がイングランドを平定した後のイングランドを舞台に、息子に会うために旅にでた老夫婦、主君から雌竜の退治を命じられ旅をする戦士、アーサー王の甥という誇り高い老騎士、竜に咬まれ傷を負ったために、故郷を追われた少年…とファンタジー小説-と同時にロードムービー的な要素もある-のような設定だが、イシグロなりの寓意が、抑制的に散りばめられているところが、単なるファンタジーとは一味違う。 

イシグロ自身は、「本書は本質的にはラブストーリー」と繰り返し述べておられるそうだが、主人公が老夫婦の、愛と冒険のファンタジー小説を、きちんと小説として成立させるあたりが、さすがカズオ・イシグロである。 

 一番驚いたのはベアトリスとアクセルの老夫婦の会話の自然さだ。 

 私は、ある80代の御夫婦と親しくお付き合いして頂いているが、夫が老いた妻を「お姫様」と呼ぶことを除けば、あのいま一つ議論がかみ合っておらず、お互いに一方通行のような、独特の二人の会話のリズムは、彼らのそれと非常によく似ている。

 私自身は読みながら、記憶について考えていた。

忘れること、忘れてしまうこと、忘れようとすること。

覚えていること、覚えていたいこと。

そして思い出すこと、思い出せないこと、思い出すまいと思うこと。

 人が幸せな気持ちで生きていくために、これらはとても大事なことだが、不幸な気持ちもまた、同じものが根底にある。個人レベルならば思い出だが、コミュニティあるいは国家レベルならばそれは「歴史」と呼ばれ、現代を揺さぶり続ける。ではどうするのか?

 そんなことを考えながら島へ渡るベアトリスを見送ったところで、物語は終わった。

 

 後日談:イシグロ氏曰く、この小説は小津安二郎監督の「東京物語」も参考になさったそうである。

 

2017-10-16 21:19:43.0  カズオ・イシグロ特集4 「夜想曲集」

 カズオ・イシグロの「夜想曲集」は、作者初の短編集である。

「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」という副題がついているとおり、音楽とベネツィア、ロンドン、モールバン、ハリウッド、アドリア海沿岸のイタリアの都市、舞台となる都市の夕暮れの風景がモチーフとなっている。そして共通のテーマとして各作品で男女間の危機とノスタルジー(若き日の思い出、失われた機会、拡散していく夢)が描かれる。そして奏でる楽器は違うものの、カムバックのために愛する妻に離婚を申し出るとか、(そこにどんな因果関係があるのか)作曲のために姉のカフェの手伝いをさぼってしまうとか、(客観的にみれば彼は限りなくプー太郎に近く、ただ働きに苦情をいえる立場ではない気がする)どの作品も共通して、登場するミュージシャンが例外なく、過剰な自意識の持ち主、というところが面白い。

 作品の長短とその質に相関関係はない、という持論を持つ私は、つまるところ作品のスタイルとして短編小説というものが好きなのだが、訳者あとがきによれば、出版界では短編小説は明らかに逆風だという。日本も例外ではないそうだが、とくに欧米はその傾向が強い。数ページごとに新しい世界に入り込むのが嫌いだったり、面倒くさかったりするらしい。

 今までイシグロは45年に1作のペースで作品を発表しているが、作品を上梓するとプロモーションのため、12年は世界各国で無数のインタビューに費やされるのだという。そのため、執筆時間が思うように確保できないこという不満があったようで、イシグロはプロモーション対策のため、短編集の逆風効果を利用したらしい。(事実、出版社はビジネス上の理由から通常のプロモーション活動を一切行っていない)長編を書くための習作として書いた初期の短編集以来、久しぶりのそして「最初から短編を書くつもりで書いた」という意味では初めての短編集だという。

 このような無数のインタビューを受けることはイシグロの執筆にも影響を与えたようで、外国の識者によるインタビューを重ねるにつれて、作品が翻訳でどう読まれるか意識せざるをえなくなり、何か書くときにそれがどう翻訳されるか気になって仕方がなくなるというのである。具体的には英語でしか通用しない洒落や語呂合わせなどは、翻訳では消えてしまうから極力避けるようなった、とある。