裄は短しタスキは長し

数種類のテーマを軸にその時の気分で書きます

2017-10-19 21:21:45.0 カズオ・イシグロ特集5 「忘れられた巨人」

201511月)

 

 今秋書架を物色して歩く時、必ずカズオ・イシグロの「忘れられた巨人」が貸し出し可能か確認していたが、ひと月以上たって、ようやく書架に戻っているのを発見した。前作の短編集「夜想曲集」から6年、「わたしを離さないで」以来、実に10年ぶりの新作長編である。 

 アーサー王がイングランドを平定した後のイングランドを舞台に、息子に会うために旅にでた老夫婦、主君から雌竜の退治を命じられ旅をする戦士、アーサー王の甥という誇り高い老騎士、竜に咬まれ傷を負ったために、故郷を追われた少年…とファンタジー小説-と同時にロードムービー的な要素もある-のような設定だが、イシグロなりの寓意が、抑制的に散りばめられているところが、単なるファンタジーとは一味違う。 

イシグロ自身は、「本書は本質的にはラブストーリー」と繰り返し述べておられるそうだが、主人公が老夫婦の、愛と冒険のファンタジー小説を、きちんと小説として成立させるあたりが、さすがカズオ・イシグロである。 

 一番驚いたのはベアトリスとアクセルの老夫婦の会話の自然さだ。 

 私は、ある80代の御夫婦と親しくお付き合いして頂いているが、夫が老いた妻を「お姫様」と呼ぶことを除けば、あのいま一つ議論がかみ合っておらず、お互いに一方通行のような、独特の二人の会話のリズムは、彼らのそれと非常によく似ている。

 私自身は読みながら、記憶について考えていた。

忘れること、忘れてしまうこと、忘れようとすること。

覚えていること、覚えていたいこと。

そして思い出すこと、思い出せないこと、思い出すまいと思うこと。

 人が幸せな気持ちで生きていくために、これらはとても大事なことだが、不幸な気持ちもまた、同じものが根底にある。個人レベルならば思い出だが、コミュニティあるいは国家レベルならばそれは「歴史」と呼ばれ、現代を揺さぶり続ける。ではどうするのか?

 そんなことを考えながら島へ渡るベアトリスを見送ったところで、物語は終わった。

 

 後日談:イシグロ氏曰く、この小説は小津安二郎監督の「東京物語」も参考になさったそうである。

 

2017-10-16 21:19:43.0  カズオ・イシグロ特集4 「夜想曲集」

 カズオ・イシグロの「夜想曲集」は、作者初の短編集である。

「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」という副題がついているとおり、音楽とベネツィア、ロンドン、モールバン、ハリウッド、アドリア海沿岸のイタリアの都市、舞台となる都市の夕暮れの風景がモチーフとなっている。そして共通のテーマとして各作品で男女間の危機とノスタルジー(若き日の思い出、失われた機会、拡散していく夢)が描かれる。そして奏でる楽器は違うものの、カムバックのために愛する妻に離婚を申し出るとか、(そこにどんな因果関係があるのか)作曲のために姉のカフェの手伝いをさぼってしまうとか、(客観的にみれば彼は限りなくプー太郎に近く、ただ働きに苦情をいえる立場ではない気がする)どの作品も共通して、登場するミュージシャンが例外なく、過剰な自意識の持ち主、というところが面白い。

 作品の長短とその質に相関関係はない、という持論を持つ私は、つまるところ作品のスタイルとして短編小説というものが好きなのだが、訳者あとがきによれば、出版界では短編小説は明らかに逆風だという。日本も例外ではないそうだが、とくに欧米はその傾向が強い。数ページごとに新しい世界に入り込むのが嫌いだったり、面倒くさかったりするらしい。

 今までイシグロは45年に1作のペースで作品を発表しているが、作品を上梓するとプロモーションのため、12年は世界各国で無数のインタビューに費やされるのだという。そのため、執筆時間が思うように確保できないこという不満があったようで、イシグロはプロモーション対策のため、短編集の逆風効果を利用したらしい。(事実、出版社はビジネス上の理由から通常のプロモーション活動を一切行っていない)長編を書くための習作として書いた初期の短編集以来、久しぶりのそして「最初から短編を書くつもりで書いた」という意味では初めての短編集だという。

 このような無数のインタビューを受けることはイシグロの執筆にも影響を与えたようで、外国の識者によるインタビューを重ねるにつれて、作品が翻訳でどう読まれるか意識せざるをえなくなり、何か書くときにそれがどう翻訳されるか気になって仕方がなくなるというのである。具体的には英語でしか通用しない洒落や語呂合わせなどは、翻訳では消えてしまうから極力避けるようなった、とある。

 

2017-10-13 21:28:38.0 カズオ・イシグロ特集3 「私を離さないで」

(2014年のブログより)

最近、小説を読んで泣かない。

多分、最後に小説を読んで涙を流したのは、カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」だったように思う。

 「わたしを離さないで」は、不思議な小説である。学園恋愛小説であり、ミステリでもある。バイオ系SF小説のようでもあり、間違いなく正統派の文芸作品である。語り口がとても静かで抑制が効いていて、言葉が突き刺さるのではなく胸にひたひたとしみ込んでくる感じ。だから読み終わった直後の涙もまた静かにあふれてきた。

 しかし「わたしたちが孤児だったころ」はあまりに結末が残酷で、涙するどころかショックでなぎ倒され、へたり込んでしまった。さらにブッカー賞受賞作「日の名残り」は、「はてな?」という感じで、すごく感動したという記憶がない。もし誰かにカズオ・イシグロのイチオシを挙げろ、と言われたらやはり「わたしを離さないで」だと思う。

 余談だが、妙高市図書館所蔵の「日の名残り」は、以前私が持ち込んだものである。

2017-10-08 13:19:51.0 カズオ・イシグロ特集2「日の名残り」

 2009年春のことである。

 ブックオフで本を買い取ってもらい、買い取り価格が決まるまで店内を歩き回っていたら、カズオ・イシグロの代表作「日の名残り」を発見、早速購入した。

 カズオ・イシグロは1954年長崎生まれ。60年、5歳の時家族とともに渡英。日本とイギリスの2つの文化を背景にして育つ。ケント大学で英文学を、イーストアングリア大学大学院で創作を学び、ソーシャルワーカーとして働きながら執筆を開始。82年長篇デビュー作「遠い山なみの光」で王立文学協会賞受賞、86年「浮世の画家」でウィットブレッド賞受賞。89年長篇三作目の本書「日の名残り」でブッカー賞受賞。95年「充たされざる者」00年「私たちが孤児だったころ」を発表。05年発表の「わたしを離さないで」は世界的なベストセラーとなった。私も最初に読んだのは「わたしを離さないで」で、なぜかこの作品は当時のこのミス海外編でもランクインしている。次に読んだ「私たちが孤児だったころ」は結末の衝撃の大きさにへたり込みそうになった。派手であざとい表現は一切ない抑制された文体で、すい、すい、と読む者を引き込んでいく。大体、4,5年に1作のペースで作品を発表しているから、新作が近々出るかもしれない。

 ブッカー賞について。イギリスの多国籍企業、ブッカー・マコンネル社が1969年に設立した、その年に出版された最も優れた長篇小説に与えられる、イギリスで最高の権威ある文学賞。最近の候補作には「荊の城」「チャイルド44」などがある。

 さて、イギリス上流階級の使用人といえば、かの有名なジーヴズとハーレクインロマンスのエキストラのような存在しか知らなかった私だが、本書の主人公スティーヴンスはイギリス貴族ダーリントン卿のお屋敷に仕えていた執事で、キャラクターは正反対である。私は彼のユーモア精神のなさと朴念仁ぶりを精緻に描ききった著者のユーモア精神に感嘆してしまった。おそらく、お屋敷勤めをされていた方の中では彼が多数派で、ジーヴズはフィクションの中でのみ成り立つキャラクターなのだと今回初めて理解した。

さて、作中スティーヴンスは「品格」について何度も考察し、結局納得のゆく解答にはいきつかなかった。昨年まで日本では何かと「品格」がもてはやされていたけど、あれは嫌な現象だった。「何々の品格」という本の広告を新聞で見るたび、そしてそれらが書店の売り上げの上位にランクインしたのを知るたびに、何と下品な、と思ったものだ。

自分自身を上品だと思っているからではない。結局それは明確に定義できないし、そもそも天賦の才なのか会得するものか、すら判断できない。ゆえに「品格取得マニュアル」はなんとなく胡散臭い、と切り捨ててしまったのである。

使用人とはいえ、一つ屋根の下に暮らす同居人になるわけだから、(それとも、そう感じるほど小さい家には執事は必要ないのだろうけど)その意味では私だったらスティーヴンスよりジーヴズがいいなぁ、と卑近に考えてしまった。

2017-10-07 21:46:09.0 カズオ・イシグロ特集 その1

 今年のノーベル文学賞はカズオ・イシグロ氏が受賞した。お!と思ったが、以外ではなかった。むしろ村上春樹さんより「妥当だな」と思った。

 これは私の下衆の勘ぐりだが、ノーベル賞の委員会は、日本の村上春樹の受賞への期待に関する日本のフィーバーぶりや、イギリスのブックメーカーのオッズやらに辟易して-そう思っても無理はない、と私個人は思っている-いて、「ハルキにだけは賞を授与してなるものか」という思惑が働いている気がしてならない。

 だから委員会の皆さまは、去年のボブ・ディランのように、授与に対して余りにも謝意が感じられず、自分たちを振り回す人には授与したくない。その一方で、ハルキ・ムラカミには授与したくないが、彼が受賞を逃すたびに不満を募らせるファン心理を懐柔でき、かつ受賞を発表した時に、多くの人-特にハルキストと呼ばれる人たち-が納得できる方、となるとカズオ・イシグロは極めて妥当だったのではないかと推測している。

 

 というわけで、明日からしばらく、今までこのブログとその前身であるモバゲーの日記に掲載した文章のリバイバルをアップする予定です。よろしかったら読んでください。

 

追伸。今日図書館に行ったら、海外文学のい行の棚にぽっかり空きができていました。