ドンカズの動き

趣味やNPO災害支援の状態の報告です。 宮澤一也の「云いたい放題、書きたい放題」でも地域の事を真剣に考えています。 震災等の活動体験を語り継ぐ大切さを感じました。 今までやってきた活動を元に纏めた、PP等使い防災活動、ボランテアの有効活用等の「出前講座」引受ます。但し顎足付。

2010/01/24 07:31文化の伝播と征伐・2

大和王権進出の前進基地的要件のもと、大化三年渟足柵が置かれ、翌四年には磐舟柵の建設が成り、蝦夷進出に備える為、「越」と「信濃」から人々を移住させ屯田兵的柵戸とした。

この対応は当時の政府の蝦夷政策の積極性を語るもので、除々に北進の成果が上げられたと思われる。

磐舟柵設置から七年後斉明元年(六五五)越の蝦夷九九人、陸奥の蝦夷九五人を饗応し、柵養(さかう)蝦夷九人、津刈(つがる)蝦夷六人に叙位した。(600p)
 続いて斉明四年から六年にかけ越国守阿部引田臣比羅夫は船師一八〇艘を率いて齶田(秋田)・渟代(能代)・津軽・渡島(北海道)に遠征し蝦夷。粛慎(みしはせ)を討っている。
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そして蝦夷や都岐沙羅(つきさら)柵造(きみやつこ)・渟代柵造(ぬたりきみやつこ)・越国司・道奥国司らに論行賞を叙位、越蝦夷・陸奥蝦夷・粛慎を飛鳥で饗応している。
出羽の庄内地方が完全に掌握されぬ時期に出羽以北に数度の遠征は越国総力の対応で有ったと思われ、この負担は住民の肩に重くのしかかったと思われる。

この遠征の継続を含め蝦夷征伐は、朝鮮半島の情勢悪化、百済救援、日本水軍の大敗、大陸からの侵攻に対する国防対策から、一時中断をせざるを得なかった。
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しかし、この外戦は大和の支配階級に国家意識が形成され、その後の国家統一事業の、大切さから一層の対策が行われたと思われる。(601p)

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