ドンカズの動き

趣味やNPO災害支援の状態の報告です。 宮澤一也の「云いたい放題、書きたい放題」でも地域の事を真剣に考えています。 震災等の活動体験を語り継ぐ大切さを感じました。 今までやってきた活動を元に纏めた、PP等使い防災活動、ボランテアの有効活用等の「出前講座」引受ます。但し顎足付。

2009/09/20 09:09 小冊子の内容4・新潟県は越後では無かった。

新潟県は越後では無かった。
 新潟県の旧名「越後」はどの様にして使われ出したのでしょうか。
天智7年(668)年「越の国」から燃える土と水が大和朝廷に献上されたとの記述が有り、北陸地方から山形県までを「越の国」と呼んでいました。「越の国」の意味するところは「幾山河を越えなければ行く事の出来ない遥かな国」だったと思われます。
 690年代末越の国の内、出羽郡と現在の新潟県北部(磐船柵・沼垂柵)が越後の国とされ、それ以外の部分は「越中の国」だったのです。それが702年に頸城・魚沼・古志・蒲原の四郡を加え「越後の国」に成りました。712年越後の国の「出羽郡」を「出羽の国」とし、ほぼ現在の新潟県が「越後の国」とされたのです。
越後を三つに分ける必要は
 では越後を三分する、上・中・下の区分はいつどのような必要性から発生したのでしょうか。十世紀代から江戸時代までは、地域は頸城や三島・古志の郡名、栗原・板倉・五十君などの郷名区分されていました。江戸時代は郡名や各藩領の区分で十分であり、越後の国を三区分する必要性があったかどうかは疑問です。
 越後の国を二分する表現が十八世紀末に表れています。それは橘南溪の紀行文「東遊記」の中にあります。また、十九世紀初めの長沼重光の「北越雑記」にも有りますが、これも越後府中が有った頸城郡と米山境にした表現です。(次回に続きます)



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江戸時代の越後古図・関川から米山まで。