ドンカズの動き

趣味やNPO災害支援の状態の報告です。 宮澤一也の「云いたい放題、書きたい放題」でも地域の事を真剣に考えています。 震災等の活動体験を語り継ぐ大切さを感じました。 今までやってきた活動を元に纏めた、PP等使い防災活動、ボランテアの有効活用等の「出前講座」引受ます。但し顎足付。

2009/09/23 09:18 小冊子の内容・6。「上越」を最初に使ったのは

「上越」を最初に使ったのは誰?
そもそも明治以前は、いろんな面から見て越後を三分割する地名が必要だったかどうかです。それ以前は行政区分天領・藩領で統治され、地名は郡名・郷名で十分足りていたのではないでしょうか。また、住民は徒歩中心の生活行動範囲からして、広域的な地名は必要はなかったと思います。
今の「上越」の表現が表れたのはいつでしょうか。明治十四年、中央の政治変革により東京では「立憲改進党」がつくられ、翌年、地域政党「頸城自由党」から別れた人たちによって 「上越立憲改進党」が設立されました。これがこの地域で「上越」が使われた最初と思われます。
「中越」の地名がつかわれたのはそれから約十年後です。
「下越」という表現はなかなか見つからず、越後が三区分された表現から「いつの頃から『後』が取れた」とする市行政の説明は説得力に欠け、真実から目をそらしているように思えます。
以上から「上越」等の表現は明治政府の政策から生まれたものと考えるべきで、とうてい歴史ある地名とは言えません。越後といわれた時代に広く使われたとするには明らかに文献が足りず、この点についても市行政は住民に対して責任ある説明をすべきだと思います。
(以上小冊子より)
「上越立憲改進党の設立の中心的役割を果たしたのは「室幸次郎翁」と思われます。「室翁」の顕彰碑は高田公園、博物館北側に有ります(写真)


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室 幸次郎 翁とは
天保10年9月、高田、現、東本町に生まれる
慶応2年、京都に上がり勤皇の志士と交流
戊辰戦争では新政府軍に属し功を上げる
明治7年、 県立高田中央病院の前身、高田病院の設立に同志と共に尽力
明治14年、信越鉄道設置計画、前島密、等同志600余名と発起、会社設立
明治15年、上越立憲改進党設立
明治19年、信越線の一部と成る直江津・関山間開通
明治23年、第一回衆議院選挙当選5回当選
      政界中央で地元の発展に尽力。多くの中央政界人と頸城地域で交流
明治36年6月12日・没
明治38年、高田、善導寺境内に、大隈重信翁書の顕彰碑立つ
その後高田公園内に移設(博物館北側)