ドンカズの動き

趣味やNPO災害支援の状態の報告です。 宮澤一也の「云いたい放題、書きたい放題」でも地域の事を真剣に考えています。 震災等の活動体験を語り継ぐ大切さを感じました。 今までやってきた活動を元に纏めた、PP等使い防災活動、ボランテアの有効活用等の「出前講座」引受ます。但し顎足付。

2009-11-15 08:05:38.0 頚城古墳群と夷守

頚城の古墳群と「夷守」の地名は何故出来た

 前期古墳群期の頚城における遺跡は海岸線近くの上越市中島付近の古墳や大潟の丸山古墳が有るが奥地の丘陵地帯には波及せず、古志、蒲原へと波及し、阿賀野川水運により、会津地方へ伝播したのではないだろうか


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頚城の丘陵東部地帯に後期の古墳群が多い、現在の上越市三和区及び牧区の宮口、水科そして、清里区の岡嶺台地で有る。

なぜあの地域に古墳が多いのか、それほど有力者が多くいたのだろうか、それとも一般人の埋葬も石を積んで埋葬したのだろうか。
それほど有力な動力も無い中人力で大きな石を積み重ね、大きな上函石を積むことが出来たのだろうか。



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一般人はもっと簡易な方法で埋葬されて居たのではないだろうか。
さてこの古墳群が出来たと思われる六三〇年頃、この地域は蝦夷人の居住南限に隣接する地域で有ったとされる(高志の城柵六頁参考)

此の地域で蝦夷人(原住民)と大和朝廷蝦夷征伐軍勢と戦いが行われたのではないか、この地域の七世紀代からの支配者として、物部氏が記され、物部郷や物部神社の存在も有り、其の部族の役割として「軍事的性格の強い屯田兵的な植民」の文献も有り、対原住民戦で多大な戦死者を出したのではないか、そして多くの武将も戦死した。

其れを弔う古墳で有ったのではないだろうか、そしてこの地域を「夷守」とした事も考えられる。多くの戦死者を弔い、その犠牲を後世に知らしめし、戦死者を鎮魂する意味をも持っているのではないだろうか。

頚城地域の郷名変化の中で 「上夷守」「下夷守」 の表現も有り新井の「美守」も「夷守」の変化とする意見も有る。
「夷守」から「美守」への変化も地名「好名変化」の影響も論じられている。