ドンカズの動き

趣味やNPO災害支援の状態の報告です。 宮澤一也の「云いたい放題、書きたい放題」でも地域の事を真剣に考えています。 震災等の活動体験を語り継ぐ大切さを感じました。 今までやってきた活動を元に纏めた、PP等使い防災活動、ボランテアの有効活用等の「出前講座」引受ます。但し顎足付。

2009-10-31 18:49:19.0 参考・引用させて頂いた文献に付いて

越・クビキの成り立ちについては以下の文献を参考にさせて頂きました。

大日本地名辞書・吉田東伍書(冨山房)
大日本歴史地名大系・新潟県の地名(平凡社)
古代地名語源辞典・楠原祐介他(東京堂出版)
日本古代史地名辞典・加藤謙吉他(雄山閣)
古代地名大辞典本編・角川歴彦(角川書店)
地名語源辞典・山中襄太(校倉書房)
古志の城柵・小林昌二(古志書院)
頚城郡誌
頚城村村史
清里村村史
訂正越後頸城郡誌稿
三和村誌
新潟県地名考
柏崎市史
蝦夷と東北戦争・吉川弘文館・鈴木拓也書
古代蝦夷・吉川弘文館・工藤雅樹書
此の他韓国及び日本の高校用歴史教科書を、参考にさせていただきました

2009-10-31 15:30:39.0 高志国・越国・から越後へ・2

高志国(越国)から越後の成り立ち・2
大化の改新後、高志国(越)北部の我が地域は、大和政権の北上の前進基地と成り、大化三年(六四七年)渟足柵が作られ、翌年磐船柵が置かれた。
文武天皇二年(六九八)渟足柵と磐船柵が「越後国」とされたとある。ここを蝦夷征伐に基地として六五八年蝦夷を打ち、渟代・津軽に郡領を定めたとされる。


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越後国の成立は、前・中・後の三国同時とするなら持統天皇三年(六八九)年から六年九月の間と推定されると言う。
此の頃の越後国の南限は信濃川・阿賀野川河口付近だとされる。
此の頃の両河川の河口は一つだったと思われる。
此の事から当初の越後の影響力は、渟足柵以北、秋田、津軽地域までだとも考えられる。
又他の文献等によれば、渟足柵・磐船柵と出羽郡が第一次越後国とされたとする説も有る。
(下図は江戸時代の越後古図)

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その後この越後の領域に大宝二年(七〇二)越中国から頚城・古志・魚沼・蒲原の四郡を割き越後に加えた。
此の時の越後の南端境は越中国新川郡と成った。
和銅元年(七〇八)年新たに出羽郡が作られ同五年九月出羽郡は越後国から独立して「出羽国」と成り概ね現在の新潟県が越後とされ領域が確定した事に成る。 

2009-10-30 17:39:23.0 高志国・越国・から越後へ

高志国(越国)から越後の成り立ち
「久比岐国」が史実に語られるのは日本尊命の国造りに始まり、崇神朝にまず、久比岐国が置かれ、成務朝に「高志深江」の国を加えた(設立した)とされる。

では「久比岐」「高志」「深江」三国の地名の意味する処と、その後の地域づくり、発展はどんな関係にあるのだろうか。


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さて「越国(高志国)」はどんな経過を経て、越後・越中・越前に分割されたのかで有る。特に越後が創られた経過を見てみたい。
「越国」成立以前崇神朝には「道君同祖、素都乃奈美留命」が「高志深江国造」「大和直同祖御戈命」が「久比岐国造」に任じられたと「国造本紀」に有ると言う。

そうすると「大和朝廷以前の国造り」の部分は、高志深江・久比岐の二つの「国造」による造営だったと言える(高志・深江・久比岐の三国の可能性も有る)。

もう一つ大切な事は七世紀後半から末の高志(越)「高志深江国」「コシ」が有ると言う事と、此の二つの関係成り立ちの位置づけで有る。
大化の改新前の「越」は今の福井中心で有りその頃の新潟地域は、高志深江と久比岐と見るべきだろう。であるとしたら当初の「越」 「高志」 と完全に別の地域を指す言葉である。

(この項続く)
「クビキ」及び「コシ」の変化の概要図は
「カテゴリー」「市名は如何なる」
 「小冊子の内容・8、皆で後論を」に掲載して有ります。参考にご覧ください。

2009-10-29 19:37:01.0 久比岐の意義

久比岐とはどんな場所だったのか


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高志(越)そして久比岐の成り立ち
大国主の命と奴奈川姫の恋は、久比岐野を語るとき最初に出てくる物語と言って良いだろう。では其の「久比岐野」とは、どんな成り立ちを経て、現在の「頚城」と言われる様に成ったのだろうか。


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私たちの住む「頚城」は当初「奴奈川」と「久比岐」に分かれて居たかも知れない。
「クビキ」の表現には次の四つが有る事を認識しなければならない。多くの人が認知している、「久比岐」「頚城」此の他に「久比支」と「久疋」が有るこのほか「クヒキ」の表現も有るこれは享保八年版本「延喜式」民部省に記されていると言う。


まず「久比支」だが、東急本「和名抄」国郡部にあると言う。
「久疋」は天平勝宝年間の庸布墨書(正倉院宝物)「越後国久疋郡夷守郷戸主肥人堡麻呂庸布壱段」とされ、麻布「青芋」の献上書の様である。


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 「久比岐」越の国の一部とされる。又、「日本書記」に天智天皇七年(六六八)越の国から献上されたとする、燃える水・燃える土の記録の頃は「越の国」であり少なくとも三分割される以前は、越前地方から北は一つの「越の国」とされる。
(この頃「越」と「高志」は違う地域論も)
又清里村史では、大和朝廷から「久比岐」の国づくりが追認されたとする記述も有る。

2009-10-29 06:39:10.0 地名は如何して付いた

地名は如何して付いた。
新市に13区に次いで旧市15地区にも「地域協議会」の委員が選任された。
さて此の地域名どんな経過で付けられたのだろうか。

記録が残されている700年代に始まった地名、戦国から江戸時代、そして明治・昭和30年代の合併時に付けられたもの様々。

そんな地名の大元は「コシ」「クビキ」に始まる、それもどの漢字を使うかで、時代も意味も変わってくる。

この変革を「市名を考える市民の会」で調べてきた。
「クビキ」を調べた研究者は皆無に等しいと云う。
そんな中色んな研究書を調べてみた、当分の間お付き合い頂ければ幸いである。


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学論から外れた討論も(勝手にこんな事を考えた)
 
「くびき」と言われた私たちが生活を積み上げた地域、平成の大合併でこの地名は僅かに「気象情報」の中で「上越東頸城地方」としてだけ残った。無くなった地域名がこんな形で残っている事は皮肉で有る。


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無くなって仕舞ってから地域名を考えるなど「下衆の知恵後からまわる」の典型かもしれない。
知識のある人から見れば馬鹿にされる事は必然。でも無学故、そんな事を恐れず、過去の地域の成り立ちを継ぎ合わせ、文献に無い部分を推論で補ってしまう。学者の皆さんには許されない事だろうが、これも素人の良さと考えてほしい。
文献に無いからダメ等と云わず、間違っていたらどうして間違っているのか、何が正しいのかを議論して自分たちの地域の過去を洗い出したらどうだろうか、案外この地域の成り立ちを知る事が出来るかもしれない。


次回に続きます。