ドンカズの動き

趣味やNPO災害支援の状態の報告です。 宮澤一也の「云いたい放題、書きたい放題」でも地域の事を真剣に考えています。 震災等の活動体験を語り継ぐ大切さを感じました。 今までやってきた活動を元に纏めた、PP等使い防災活動、ボランテアの有効活用等の「出前講座」引受ます。但し顎足付。

2009-11-17 10:48:08.0 中越沖震災シンポ報告・8。9月からの活動

これは、私が今度9月10日から約6カ月以上、柏崎と刈羽に通っていました。
さっき言った後藤さんと一緒にやりながら遣った活動、被災住宅の被災程度を確認、そしてボランアが作業を安全に行う為の対策を行ったいました。

後藤さん達が御帰りになった後、1人でこういう住宅のところを回っていたということです


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下図は柏崎の曾地という所の被災住宅です。
この柱がここで折れていたんです。
この対応は生活物資を搬出する為の安全確認です。
この裏にあった2階の縁側の廊下が歩けない状態でした。
ですからそこを補強して、品物を出せる様にする、それと住宅全般の改修相談を受けております。



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私が被災住宅の改修相談に当たって、一番困った事は「家族内」の意見が纏まっておらず、家族内で「改築派」と「改修派」の意見が対立している事が多かったです。
こんな時はまず家族内でよく話し合う事を進めるしかないと云う事です。曾地での住宅はその後全面改築が行われました。

2009-11-16 08:45:47.0 爺さんの嘆き

爺さんの嘆き

先週金曜日、新潟古文書館で「越後古図」の特別展示が行われている事を知り出掛けた。

新潟駅南口からバスに乗った。小生バスの前寄りの身障者優先席に、後部席に元気の良い中学生らしき学生が6・7人、会話が弾んでいた「今度君は生徒会長だ」など、全車に響き渡る声で話す。あまり大声なので「少し静かに話せませんか」と云った。

今バスや、電車で周りを気にせず大声で話し合う人達をよく見かける。自由な社会で有るから、それはかまわない事なのか、自分達の意思が通ずればよい範囲の声で話すべきなのか、判断の尺度が違うようだ。

今回の小生の「一声」中学生は「叱られた」と取ったか「怒られた」と取ったか、日本の躾何処か狂っては居ないだろうか



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それでも越後古図は待っていてくれた。

2009-11-15 08:05:38.0 頚城古墳群と夷守

頚城の古墳群と「夷守」の地名は何故出来た

 前期古墳群期の頚城における遺跡は海岸線近くの上越市中島付近の古墳や大潟の丸山古墳が有るが奥地の丘陵地帯には波及せず、古志、蒲原へと波及し、阿賀野川水運により、会津地方へ伝播したのではないだろうか


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頚城の丘陵東部地帯に後期の古墳群が多い、現在の上越市三和区及び牧区の宮口、水科そして、清里区の岡嶺台地で有る。

なぜあの地域に古墳が多いのか、それほど有力者が多くいたのだろうか、それとも一般人の埋葬も石を積んで埋葬したのだろうか。
それほど有力な動力も無い中人力で大きな石を積み重ね、大きな上函石を積むことが出来たのだろうか。



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一般人はもっと簡易な方法で埋葬されて居たのではないだろうか。
さてこの古墳群が出来たと思われる六三〇年頃、この地域は蝦夷人の居住南限に隣接する地域で有ったとされる(高志の城柵六頁参考)

此の地域で蝦夷人(原住民)と大和朝廷蝦夷征伐軍勢と戦いが行われたのではないか、この地域の七世紀代からの支配者として、物部氏が記され、物部郷や物部神社の存在も有り、其の部族の役割として「軍事的性格の強い屯田兵的な植民」の文献も有り、対原住民戦で多大な戦死者を出したのではないか、そして多くの武将も戦死した。

其れを弔う古墳で有ったのではないだろうか、そしてこの地域を「夷守」とした事も考えられる。多くの戦死者を弔い、その犠牲を後世に知らしめし、戦死者を鎮魂する意味をも持っているのではないだろうか。

頚城地域の郷名変化の中で 「上夷守」「下夷守」 の表現も有り新井の「美守」も「夷守」の変化とする意見も有る。
「夷守」から「美守」への変化も地名「好名変化」の影響も論じられている。

2009-11-14 11:47:34.0 「クビキ」は原住民の言葉か

「クビキ」は原住民の言葉か? 

クビキの発音語源は定かではないが、結論だろう。
地形から来た説、首きり地蔵説等々だ,語源が解らないから「アイヌ」語説、また語源が解らないからそれを「アイヌ」語説としてはならないと云う説もある。

多くの研究者が之に触れ結論が出ない事に対して、私の様なものがとやかく言うべきでないが最もとも云える。

だが「コシ」が「委ねた所」の意味をもつとなると敢えて「クビキ」の関係する言葉を探したくなるのも心情と勝手にこじ付け辞典を探すことにした。


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まず
「ク」 (ku=)「ヒ」 (hi)、又は~の、とされる。 「キ」 (ki)、又は、~する,とされる。 「クキ」は、私がした、と成ると云う。

「シキ」 (siki)はオニガヤだという。「ピシ」(pis)「クピタ」(kupit)水面に出ている中州、等もある。

又古墳関係の言葉として「クワ」 (kuwa) 「墓標」もある。
「チ」 (ci=)は「我々」である。
浅学に身では「クワチ」我々の墓標とした。
当然異論は多いと思う大いに議論してほしい。

又、私たちが何気なく使っていた言葉に共通する発音、それに近い発音が多くあることも知った。
幾つかを上げたい。大工道具の丁奈「テウナ」 (tewna)、年老いた男「チヤチヤ」 (ca‐ca)これは私たちが子供の頃父親や婦人が連れ合いを「ちゃー」と云っていた事を思い出す。また履物で「刺し足袋」「サシタビ」 (sasitabi)であり「薬」「クスリ」 (kusuri)であり、秘薬伝来に関連するのかとも思う。
 

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まだ共通発音や議論する処は多くあると思われ、今後皆様にご指摘頂きたいと思っている。

2009-11-13 07:41:57.0 ク・ビ・キ、は何処で区切る

クビキ発声は何処で区切る

久比岐あるいは頚城と漢字で表されるが仮名で書いた場合は、 「くびし」あるいは「くびき」と成る。

又発音の問題として「日本古代史地名辞典」などでは「城」が乙音「岐」が甲音で一致しないと指摘しているが、東国では此の様な事が少なくないとしている。(乙音・甲音とは何か調査必要)

又、クビキ(クビシ)の三音をどの様に発音するのかの検証の必要性を示す所見も有る。 

「ク・ビ・キ」「ク・ビキ」なのか「クビ・キ」の発音で意味合いが違って来るようだ。



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 「コシ」といわれる地域に中央勢力の影響が出てきた時期に付いて「高志の城柵」を表した小林昌二氏は前期古墳時代(五〇〇年第前半以前か)にすでに「クビキ」地域を越や高志深江地域と言われる蒲原地域で前期古墳分布が見られるとしている。

能登地域から「クビキ」の海沿いを経て蒲原へ伝わったのはなぜだろうか。

能登から佐渡から頚城や高志深江に伝わったのではないのだろうか。そして水運によって、信濃や会津地域に文化の伝播が有ったと考えられないのだろうか。



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頚城地域の多くの古墳文化は古墳時代後期とされており、特に私が住む清里区岡嶺台地には多くの古墳が有り、私が中学生時代(S三〇年頃)で現在の清里区総合事務所西側五〇M位な宅地から古墳副葬物の直刀が出てきた事が記憶に有る。

このようにクビキ地域を越えた文化の伝承は何故かを考えるべきだろう。