ドンカズの動き

趣味やNPO災害支援の状態の報告です。 宮澤一也の「云いたい放題、書きたい放題」でも地域の事を真剣に考えています。 震災等の活動体験を語り継ぐ大切さを感じました。 今までやってきた活動を元に纏めた、PP等使い防災活動、ボランテアの有効活用等の「出前講座」引受ます。但し顎足付。

2010-01-31 07:49:22.0 狩猟生活と稲作文化の接点

縄文末期に大陸から「稲作文化」が伝播し南部分の食糧生産が盛んと成り、定住生活と南北の人口比率が逆転する事になる。
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しかし天候に左右される地域に於いては、一気の稲作文化に移る事は出来なかった。

それは天候不順による「凶作」死活問題で有り特に頚城地域はその中間に位置し、両生活方式を取り入れざるを得なかったで有ろうし、良く見れば両方の文化に触れる事が出来たと云える。
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現状の県北より北は稲作に移らず従来の非定住生活で食糧を得ることが得策であったと思われ、稲作文化の定住者と非定住生活者の対立が生まれ、これが蝦夷と云われる原住民が、七世紀中葉からの大和勢力による城柵作りによる、征伐の対象と成ったと思われる。

此の頃には前項に触れた前項で触れた越後蝦夷と云われる人達が地域の為に奮戦し大和勢力との何らかの戦いが有ったと思われる。  

2010-01-30 07:50:44.0 構造線は文化の接点・1

狩猟生活稲作文化の接点

古墳時代後期大和勢力の及んだ範囲を見るとき重要な手掛かりに「国造(くにのみやつこ)」制が有る、少なくとも此の時には国造の作られた地域は表面上、原住民(蝦夷)は大和勢力に協力するか、征伐されたと見るべきだろう。
という事はそれ以前に於いては、大和勢力と原住民とのいさかいが有ったと見るべきだろう。
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それ以前の石器時代から縄文期に入り、森林山地の植生の違いから北と南の人口密度が違っていたと云われている。
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北の植生はブナなどの木が有りそれが現住民の食糧と成ると共に動物の食べ物ともなり、食糧や動物を追った定住地を持たない生活で有ったと云われている。
(遣唐使が唐の天子に、原住民(蝦夷人)の存在や生活様式を問われ答え多内容から推察)

植生境から南に於いては常緑木が主で有り、原住民の十分な食糧とは成らず、肉食源となる動物も少なかった、そうすると当然生活出来る人数にも差が出ており国土の北部分の人口がはるかに多かったと云われている。

2010-01-29 18:03:14.0 今日はドックです。

今日は朝5時半に家を出発、岩室の健診センターへ、年一回の我が身の健康診断、女房と共に出掛けた。

家を出た時は、、大潟区からに成り、下道で2時間、一寸飛ばし過ぎか。

病気に成っても延命治療はいらないと宣言する、連れ合いだが、月一回は高血圧、と股関節治療の為通院も欠かさない。

小生、今日の途中経過は、ほぼ健康との事。
血圧は高めに出たが、美人の看護師さんが対応した成果
内臓的にはほぼ年齢相応、連続的は薬の服用も今に処ない。
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風邪気味でも富山の置き薬を服用、早めに寝れば翌日にはほぼ治っている。
貧乏人だが丈夫な体をくれたのは、両親か、神様か、それとも病気をしたら生活出来ない環境が、そうなったのか。

ともあれ健康な体に感謝。

今日の健診で、医者の診断の際何か聞きたい事はないかと云った。

人に云われる、腹黒、物をはっきり云い過ぎるを直したいが、これは医者では無理だろう。

ついでに、貧乏も何とかなる方法はないか。

帰りはほとんど晴天、か曇り空、三時間で帰宅。早速パソコンに向かった。

2010-01-28 08:49:18.0 皆様に感謝

皆様に感謝

9月4日にブログを書き始めてやがて5ヶ月。

越・クビキ」の地名問題に付いての投稿も42回と成り書き貯めも後2・3回で終わりと成ります。

郷土史の専門家の皆様から見れば取るに足らない内容で有ったと思いますが、お付き合い頂いた皆様に感謝申し上げます。

その後は第3回公開講座の表題「頚城の雑学」に、今までの要点を入れ、縄文期から、現代までの地域の移り変わりを、見れたらと思って居ります。

皆様のご意見を頂けたら幸いです。
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ブログをご指導頂いて、やがて5カ月、この間毎日更新を心掛け、投稿回数約160回、今の処、何とか遣っています。
今日午前7時30分ころブログ更新でJCANの接続、自ブログ、アクセツが29999回、どうやら3万回アクセツに達したようです。

自分勝手の内容のブログを良く見た頂けると感謝致しております。

今後とも皆様からのご意見、ご指導を頂けます様お願いをいたします。

2010-01-28 07:43:38.0 越の蝦夷と云われた人達

越の蝦夷と云われた人達
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その後、持統三年(六八九)越蝦夷沙門(ほうし)の道信蝦夷八釣魚(やつりな)に、持統十年に越の渡島(佐渡島)蝦夷伊奈理武志(いなりむし)と粛慎の志良守叡(しらすえ)草(そう)に、さらに文武元・二・三年に越後蝦狄(えてき)に仏像、仏具や錦・絹・斧など方物や爵位を下賜し武力征伐でなく懐柔したと思われる。
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この時期には岩船郡域は大和政権の統治下に入り以北の庄内・北海道の蝦夷・粛慎が統治征伐の対象に為ったと考えられる。

またこの期には、越国が越前・越中・越後に分割され、阿賀以北を以て第一次越後国が成立し、越後以北の蝦夷(原住民)と直接対応する事になり、磐舟柵の二回に及ぶ修復は越・佐渡の負担で有ったと思われる

又懐柔した、越の蝦夷等に「下賜」された仏像、仏具は仏教思想に寄る思想統一の目的も大きかったと思われる。



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