ドンカズの動き

趣味やNPO災害支援の状態の報告です。 宮澤一也の「云いたい放題、書きたい放題」でも地域の事を真剣に考えています。 震災等の活動体験を語り継ぐ大切さを感じました。 今までやってきた活動を元に纏めた、PP等使い防災活動、ボランテアの有効活用等の「出前講座」引受ます。但し顎足付。

2010/01/14 11:45 空白の二百年・2

この構造線は、言葉では、京ことばの影響食文化では、さけ、ぶり文化の境界、源氏ボタルの西型(二秒間隔に光る)東型(四秒間隔に光る)など事例や、近隣境界に於いて、谷・沢に表現の違いが有る有る。  
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話が横に反れたが冬期の多大な降雪は経験のないものには、どうする事も出来ない事と思う、積雪を考えると海岸線はそれでも雪量が少なく経験の無い者も対応できたかもしれないが、これは大きな理由とは思われない。

もう一つは海岸線の原住民と平野奥地の丘陵に住む原住民との違いであったかも知れない。海岸線の人たちは、海運による文化交流が、割と簡易に行われたのではないか。
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これに対して奥地に住む人たちの交流は限られ、地域によって守る共同体意識が強く、簡単に懐柔に応じなかったのではないか。

その結果、部民、物部の導入による、原住民 「越の蝦夷」 と戦いが起き双方に多大な戦死者が出たのではないか、東部頸城丘陵の古墳群、夷守の地名、その後の「越の蝦夷懐柔記録」等これらを物語っている様に思われる。(宮澤)

2010/01/13 08:45 空白の二百年

空白の二百年の意味

大和政権の影響で前期古墳群が出来、その後の後期古墳群遺跡まで、何らかの理由で大和政権の影響がなかったと思われる約二百年、この間大和政権に何が起き、越の蝦夷はどんな対応をしたのだろうか。

まず第一に考えられる事は、大和政権が朝鮮半島の同盟関係にあった、百済を支援し半島の勢力拡大計画が他の二国の抵抗で功を奏さず敗退其の上大陸の「唐」との戦いに戦力が費やされ足もとの大和の勢力拡大が出来なくなっていた。
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此の調査は他国との戦いで有り文献等も豊富で有り究明は簡単と思われる。

 第二は「コシ」特有の気候、冬期の湿気の多い多雪で有る。この時代には日本海に暖流が入り、冬期には大陸からの寒風により多くの降雪が有ったと思われる。

3087_126333987400.jpgまた大和政権の勢力北進は「北陸」 (ほくろく)より「東海」 (うみつみち)が先に進んだと思われる。

それは気候的条件から、年間を通し可能な条件から当然と思われる、またその事は「くびき」地域の文化伝承に北陸と共に、信濃、上野から伝承遺物も多い事が物語っているが、先にも触れたように、国土を二分する構造線の問題は無視できないと思う。

2010/01/12 08:20 征伐と従属・2

頸城の古墳遺跡は前期古墳遺跡は海岸線寄りに有り、新井斐太古墳群は六から七世紀、清里・牧・三和の古墳群は六世紀後半から七世紀にできたと思われる。(宮澤)

大化三年に渟足柵、四年に磐船柵の造営と蝦夷征伐の動きが明らかな事から頸城への大和王権の第二次進出と経営は六世紀から七世紀前半で有ろう。(590p)
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さてここに「くびき」の原住民と大和王権の対立の経過は非常に興味深い。

前期古墳期から後期古墳期に至る、二百年に及ぶと思われる、大和王権の後退、影響力の低下は何により起こったのか。

第二次影響期(後期古墳期)における、部民、戦闘集団と言われる物部氏の投入そして遺跡として残った多くの古墳群、そしてここには歴史に現われていない大きな謎が隠されているのではないか。
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石器時代に移住した古来日本民族と、弥生期に渡来した大和民族の争い、そして東西日本の境「くびき」の西南部に位置するホッサマグマ此の急峻な山岳地帯は民族の争いや、その後の歴史文化の伝達にどんな影響が有ったのか推論して行く事も必要に感じる。(宮澤)

2010/01/11 08:17 征伐と従属

征伐と従属

大和政権の北陸への進出は地理的条件より、越前地域から始まった事は云うまでもない。

王権が統一国家形成の中で、弥生時代に自立し、各地の豪族を懐柔、武力の両面で組織内に組み入れ「国造」や「伴造(とものみやこ)」とし、その下部組織の「部民(べのたみ)」を制度化した。
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氏姓をもつ豪族は、自己に従属、隷属する集団に、自己の氏名や職能名あるいは地名等を付した。又、大王家の直轄地は「屯倉(みやけ)」と云った。

「頸城」が越後に編入された当時の当郡の部民は、石部(いそべ)・肥人部・品冶部(ともじべ)・物部が有る。

四世紀の大和王権成立期の一時期大和政権が東進(前期古墳遺跡が残る)しその後何らかの理由で後退し、新たな東進は宝達丘陵以西から出羽へ地域的段階を経て四世紀から八世紀にかけ「こし」の国は拡大したしたと考えられる。
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古墳を象徴とする時代はおよそ四百年続く、古墳の形状、内部主体の種類、副葬品の組み合わせ等の変化で、前・中・後・末の四つの時期に分ける考えが有るそれに従うとほぼ前期が三世紀末から四世紀、中期が五世紀、後期が六世紀、終末期が七世紀に相当する。(562p)


頸城地域の古墳群を見たとき文化の伝播等の期間を考えるべきで、前期と云えども早くとも四世紀と見るべきと思う。

又この地域の古墳文化伝播の中断は、倭国が朝鮮半島との関係で、時の武力を、朝鮮半島に、向けなければならない理由が有ったと考えるべきと考える。

2010/01/10 08:37 高志と越

高志と越

 新潟県及び福井・石川・富山の四県は「北陸」あるいは「北越」と呼ばれるが、これは律令体制下の「北陸道(ほくろくどう)」古事記に記載される「高志」郡名としての「古志」、日本書紀の「越」・「高志」さらには「国造本紀」の「高志国造」などの呼称に由来している。
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「古志」と「越」及び「高志」はともに「コシ」といいその使用は古いと思われる。

 いずれにしても「コシ」の呼称は、大和王権側から呼ばれたもので、征服した側からの呼び方で有る。「コシ」は支配領域の先端地域とも解されている。
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其の語源は諸説あり、定説化はしていない。

たとえば万葉集一七巻三九六九の「しなざかる越」から、室町時代の一条兼良は敦賀から越前に入るのに「角鹿の坂」を越えて行く地と云う意味から「コシ」がおこったし、江戸時代の本居宣長によれば「コシ」は越後の国の「古志郡」の地名に由来するとしている。

近代史学では岡部精一氏はアイヌ語の「渡る」の意であるクシ(Kush)から転訛したものとし、吉田東吾氏は三越に広く住んでいた蝦夷人を指すものとしている。

 「コシ」が「古事記」の「古志之前角鹿(こしのくちつのが)」を前提とすれば本来若狭と敦賀を除いた福井県域を指したものと思われるが、大和政権の進出の定着とともに徐々に北進し「コシ」の地域が拡大したと思われる。(589p)