えいじま義雄の蓮風便り

「蓮」の花と薫りのように清く「義」一筋に政治の道を貫きます

2019/12/09 08:39 ♢ あの大東亜戦争開戦を風化させてはならない ♢ NO1

 

 128日が来ました、「ニイタカヤマノボレ」真珠湾攻撃の発令.、日本人が忘れてはならない日です、今から78年前.最大限譲歩し、平和を訴えアメリカ大統領ルーズベルトに交渉を行っても拒絶され続け、アメリカは何としても大国のロシアに勝ちアジア最強の清国を撃破した日本軍と、日本国の力をアジアの覇権国にさせない為とアメリカが中国の利権を独占するために日本に徹底的な経済制裁を通告してきた、最後通告のハルノートは完全に日本に対する宣戦布告でした、その後アメリカ議会でこの通告が外務委員会で問題となりましたが、それでも議会での議決をえずにルーズベルトとその一部の閣僚が日本を戦場に引きずり出した計画通りの作戦でした。

 

 

 あの日米対決の戦争は、日本が侵略戦争の犯罪国だと勝った側の傲慢無礼で非情な戦後処理や占領政策はルーズベルトのウオーギルド・インフォメーション・プログラム(日本人洗脳計画)の通り右寄りの有識者は公職追放し、左寄りの学者文化人.教職人.公務員.労働組合を導入し、二度と欧米の白人国家に歯向かわない骨抜きの国民をつくる為に憲法まで占領国に造られた独立自尊誇りの無い国家としての大切な国防までアメリカから守ってもらう状態が今でも続いています。

 

 

 あの大東亜戦争は完全にアメリカの計画通りでした、日本は兵士も民間人も360万人もの死者を出し、アメリカも40万人も死んでいます、しかし本当に勝て得をしたのはソ連のスターリンと中国の毛沢東の共産主義者達の国です、アメリカは領土も少しも広がっていません、軍事産業のユダヤの資本だけが良かっただけです、戦争は起こしてはなりませんが日本の周りは全部日本に向けミサイルを配置し領土まで自国の物だと自称しています。

 

 

 平和ボケの現状を国民や野党の政治家はこれで良いと思っているのでしょうか、アメリカの当時の実情を次回に述べたいと思います、それでは又

 

 

 

 

 

 

 

 

2019/12/05 17:11 <封建時代であっても優秀であれば人材を登用していた名君、武士は勉強していました。>

 

 失われて行く歴史観が少子化を一段と加速させている感じが致します。明治維新の頃の日本人の意識や精神力の基は突然降ってわいて来たのではありません。260年もの間徳川幕府が武士と言う官僚と軍人達を子供の時から各藩でしっかりと教育を行い、家庭でも武士としての生き方、作法、仕来りが徹底して教え込まれ、優秀であれば町人でも時の大名、その下の代官がその人材を登用し、名字(みょうじ)帯刀を与え武士の身分として政事(まつりごと)の職を与えています。

 

 前島密翁も農家の生まれですか、江戸の幕臣に出世して行き明治維新の近代化の立役者のトップの座に登り詰めたのも幼少期に受けた教育が大きく影響しました。幼い頃からの母の教育と高田城下の長門町の倉石先生の私塾、文武済美堂(ぶんぶせいみどう)に下池部から暑い夏でも、大雪の時でも歩いて通って勉強を続けました。

 

 さらに12才の時、向学心に燃える情熱を携え、野宿までして長い道のりを大変な苦労をしながらも江戸まで行きました。そして長崎で再び医学や語学の勉強を行い、世界が変化している中で早く日本も近代化しないと欧米列強の植民地にされる危機感から、日本の防御の為に日本各地を歩き、感じた事を提言しています。当然幕臣の上席にも認められ、黒船来航時には独学で学んだ英語の通訳や文書の和訳などの事務方の役人に採り立てられました。

 

 明治政府になってからもヨーロッパ訪問団の一員として視察され、ヨーロッパ諸国の郵便、通信、保険、物流の鉄道、教育、憲法や商法など明治政府の大事な政策に取り組みました。大久保、伊藤、大隈、渋沢栄一、岩崎弥太郎などの政治家、実業家を育て、国家の為に尽くした人材を数多く輩出しました。

 

 我がこの地の江戸時代最後の大名、榊原家の殿様は勿論ですが、薩摩、長州、土佐、会津藩でも身分に関係無く、家柄より能力のある優秀な人材を活かし、特に明治のあの維新では身分は下級ではあっても能力のある武士がリーダーシップを発揮しました。

 

 しかし今日の日本はどうでしょうか。東大出のエリート官僚が国を仕切っていますが学歴があっても、世の中や人間学を知りません。田中角栄先生は小学校卒ではありましたが、自らの実力で日本のトップオブリーダーとなりましたが今でも田中先生を越える政治家は現れていません。前島翁も渋沢栄一も東大を出ていませんが、死ぬまで勉強した人達です。

 

 現代人の不勉強、それが現代病の病巣ではないでしょうか。

 

2019/11/29 10:00 <激しく美しく貫き通した保守政治の革命家でした。>

 

 74才は若すぎるし、あの純潔な一本気気質の政治への情熱家であった白川勝彦先生、こんなに早く天国に帰って行かれた淋しさは心の中にポッカリと穴が空いた気持ちです。

 

 今から44年前国道18号線の石橋交差点の角で雨の日も雪の日も、30才の無名の青年だった白川勝彦さんは街頭演説からスタートしました。地盤、カバン、看板も何も無い十日町生まれ、上越市には親戚はおろか同級生、友人も誰もいない中から国会議員への熱い志だけでガムシャラに訴え続け、年末2年参りで賑わう日枝神社の雪の中に立って訴えるなど、当時はガリ版刷りのチラシで政策を訴え演説会を開くなど初めての新しいスタイルでの選挙運動を行いました。

 

 私も35才で30才の若い白川さんの熱いロマン、汗する知性みなぎる演説を高田の婦人会館で聞き、これからはこう言う若い政治家が現れないといけないと言う思いから支援者の一人となって、後援会の中核の一人として30年以上白川先生の選挙を一緒に戦いました。厳しく辛い事もあれば、リージョンプラザでは上越市では初めての1万人集会も成功させ、6回衆議院選挙で当選し感動の万歳も、又、落選の涙を一緒に流しました。

 

 この間旧新潟4区(現在の6区)では白川先生は国道18号線4車線化へ向け雪が降っても渋滞しない道路の整備、関川改修の完成、北越北線の電化による開通に尽力され、白川先生がいなければ何年、いや何十年と後回しになっていたことでしょう。自治大臣の時には新幹線地方分担金を自治省が出すと言う異例の法律で北陸新幹線早期開通を強く推し進めたのも白川先生の政治力です。

 

 自民党が野党に下野しすっかり自信を無くした時、白川先生と亀井静香氏と2人で自・社・さきがけ三党合意の荒業で自民党を再び与党にしたのも白川先生でした。幕末の高杉晋作のように強い信念の人でしたが軍勢的には恵まれない悲運の人でした。良く知られている事ですが99年に自公連立政権が発足しましたが、公明党は政教分離に違反し憲法違反であると、自身の信念から批判し続けました。その批判、方針を曲げなかった為その関係者から非常に厳しい逆襲をくらってしまいました。

 

 あまりにも理想を追い求め、自爆してしまった、純粋な雪国十日町の純白の雪のような心を持った人だったと思います。30才から30年間政界を走り続けやるだけやり切った白川勝彦先生、今は先に逝った大勢の同志とゆっくり休んで政治を語り合って下さい。

 

 「かっちゃん、ご苦労様。天国で又会いましょう」