えいじま義雄の蓮風便り

「蓮」の花と薫りのように清く「義」一筋に政治の道を貫きます

2017/01/30 10:27 現代人は忘れてはならない榊原家の「義」の心

「義」の心と言うと上越の人たちはまず上杉謙信公を思い出しますが、忘れてはならないのが江戸時代、130年にわたってこの高田を支配した榊原家も謙信公に負けない「義」の心を持ち合わせていました。

 榊原家はあの徳川四天王といわれる榊原康政を祖先に持ち江戸幕府成立の礎を築いた重臣でありました。この榊原家、当初は群馬館林に居城を持つ譜代大名でしたが、時代の流れかその後

 とさまざまな場所に転封され、最後はこの高田に落ち着きました。特に1741年の高田転封は時の八代将軍徳川吉宗の質素倹約令に反発した尾張徳川宗春に迎合して豪奢な生活を送っていた為、徳川宗春の蟄居謹慎処分に連座して本来ならば取り潰しになるところ、徳川家康の遺訓に従い取り潰しを免れ高田に転封と言う処分になりました。

 転封後、財政危機、さまざまな天変地異や飢饉、疫病に徹底した質素倹約・殖産興業で財政を好転させ、さらに幕命に従い長州征伐に従うなど、将軍家への忠節を尽くしました。

 そして明治維新、西から幕府追討軍が高田に近づくにつれ時の藩主榊原政敬公は苦渋の決断を迫られました。将軍家に忠節を尽くして一戦を交えるか、領民のために恭順し、高田を戦火から守るのか・・・果たして政敬公は後者を選ばれました。幕府側から見れば変節のそしりを免れませんが、高田の領民からすれば戦火から自分たちを守ってくれた「義」の人ではないでしょうか。

 戊辰戦争が終わり、最後まで抵抗した会津武士1742名が高田藩預かりとなり高田に護送されてきました。普通捕虜として送られてきた人々は過酷な生活を強いられ、命を全うできる人は少なかったと思われます。

 しかし、榊原政敬公は会津武士の心意気に感じ入り、礼を尽くして会津武士を遇したといわれています。逆に占領した会津藩を統治したのは同じ親藩であるはずの越前松平家でしたが、とても武士の風上にも置けないような振る舞いをしたということです。

 時代の流れでそうせざるを得なかったということもあるでしょうが、高田藩榊原家は謙信公に負けない「義」の心を通した素晴らしい武士の集団であったと思っています。

 現代人はそういう命のやりとりとは程遠い平和な時代に暮らしていますが、人間の本性を見せ付けられたとき、どこまで人としての誇り「義」の心を全うできるか試されるときが来るかもしれません。そうなったとき自らを恥じて生きなければならない選択だけはしないようにしたいと思っています。