近年、市内の個人の庭を見せる所謂オープンガーデンの記事を地元タイムス紙の記事の中で見た中で、藤の花を咲かせているある個人宅の地名と氏名に強く惹かれるものがありました。横曽根の大瀧邸と書いてありました。私が以前より一度時間があれば横曽根で旧家であった大瀧米峰翁の御子孫か米峰翁の話を知っている方がおられたらお話を伺いたいと心の中で思っておりましたので友人の車で探して行ってきました。新聞掲載の写真の通り藤の花は満開の見ごろでその香りの良さに本当に驚きました。タイミング良く御主人の大瀧さんが庭におられましたのでお話をさせていただきました。
江戸末期の戊辰戦争で官軍に敗れた会津武士1745人を高田藩榊原家が、朝敵の汚名を着せられ屈辱を浴びせられながらも誇り高い武士の中の武士、会津武士が預かり人として寺町の60もの寺に収容された事が記録に残されています。その武士団の中に全国にその名を知らしめていた南摩綱紀(なんま つなのり)と言う立派で見識の高さでは当代一の武士がおられると言う噂が広がり、当時の高田藩内のインテリの人達は話を聴きたいとの機運が大きくなり、幽閉のさなかではあるが高田藩主もその優れた知見を認め講義を許しました。その中に特に南摩綱紀の「教育立国論」に心を打たれた一人が横曽根の大瀧米峰翁で南摩綱紀の力を借り、学校制度を採り入れる先駆けとして塾では無く「正心学舎」という学校を上越で最初に立ち上げた場所が横曽根の大瀧邸でしたのでどうしても一度この目で確かめて見たかったのです。
維新から150年、上越の先達は今よりずっと貧しくても未来の日本の為に子供達への教育の大事さを考えていました。板倉の増村度弘の有恒学舎もそうですが会津の武士の方も高田に残り林義亮先生も弟子で今の板倉区稲増出身の中村十作(なかむら じゅうさく)に強い信念をお教えになり沖縄宮古島の人頭税廃止を勝ち取った神に近い人と周囲から崇められたのも越後頚城地方の教育が早くから進んでいたと言う証明です。しかし当の中村は生前には実家に人頭税に対する活動の一切を語っておらず、実家も中村の死後の昭和38年になって宮古島の砂川中学校の校長よりの手紙を受け取ってからようやく彼の活動がわかったそうです。いかにも越後人らしいですね。