高田と直江津が戦場になっていれば火の海となり、何千と言う家が焼かれ、死者もやはり千を越す悲劇が150年前に起きていたと思います。高田藩最後の殿様第14代榊原政敬公の英断のお蔭で、現上越市の高田は400年前の城下町の元型が残っていて、まち全体が博物館その物、歴史がそのまま息づいているまちであります。
その当時の殿様を始め榊原家の上層部の家臣、特に家老の伊藤正隆.川上直元.清水広博の方々と、藩士と家族1986戸約3万人の生命.財産をどう守るか、領民は27.161戸15万5.569の安否を維持継続するか想像を絶する悩みだったと思います、しかし時代は着実に変わることを江戸で勉強し高田に帰り塾を開き、武士や町民まで広く知識を教えていた倉石洞窩先生の「文武済美堂」があったからだと思います。
上越地方で早くから「専王攘夷」の思想を説き、徳川の世では欧米列強の近代国の植民地政策に対応出来ない事を教え、徳川家や榊原家を守り救うのではなく、この日本を守る思想を教えました、その中に榊原政敬公の側近33歳の若き家老の川上直元もおり、殿様に時代の変化と改革を提言されたのだと思います、又この頸城地方の地主の家柄の方やそのご子息の方々は、大変頭がよく勉強好きで当時としては反体制の近代界想.危険思想とも思える専王攘夷の志士として、町民でありながら江戸や京都の志士達と行動を共にし、新しい国造りのために情報を分折したり同志の絆を深めていた人達が倉石洞窩先生の塾に出入りされていたことだと思いますが、この高田に室兄弟、前島密.銀林綱男。瀬尾知命堂病院開祖者、 川上善兵衛.笠松宗謙.渡部健蔵など国や上越地域の為の政治家. 官僚.学者.技術士など1.000人以上の人間を世に送り出した塾を幕末から明治6年頃までの死ぬ前まで教鞭を取られておりました、私達の先輩は勉強好きで国や郷土を愛し結束し向学心に燃えていました、こう言う事は私達の誇りでもあります、今日でも同じだと思いますが、自分のまちの事を話し合う仲間の勉強会が大事でないでしょうか。
又、高田.直江津の歴史的人物を顕彰を行うべきと議会で市長に強く訴える質問をしました、歴史や伝統に関心を持つ市民が大勢いるまちしたいと思っています。