えいじま義雄の蓮風便り

「蓮」の花と薫りのように清く「義」一筋に政治の道を貫きます

2013/05/14 09:14 イメージが浮かばないまち“上越市”

 先日、所用で新潟へ出かけました。途中休憩のため、黒崎サービスエリアでお茶を飲んでいると、鹿児島市から来たという一行に道を尋ねられしばらく談笑しました。
 私たちは鹿児島市と云うと薩摩島津藩、桜島開聞岳、西郷隆盛、大久保利通と、直ぐイメージ出来ます。しかし、私が“上越市”と言っても相手さんはその位置、歴史を全くイメージ出来ないようでした。そこで方向を変えて上杉謙信の生誕の地、春日山城、高田藩と口にすると、即理解して頂きました。「高田城址の4000本の夜桜は日本一です。今度是非高田にお出かけ下さい」と言って旅の無事を祈って別れました。
 高田市と直江津市が合併して42年の月日が経ちますが、その時命名された“上越市”という町名は全く認識されていないようです。歴史と伝統に裏付けられた町名がいかに大切であるかを実感したひと時でした。

 私たちの住むまち“高田”は永い歴史と伝統に彩られたまちです。
 
 上杉謙信の時代、春日山城下は人口6万人とも云われ、京都に次ぐ城下町でした。
 堀氏の時代となり、府中(直江津)に福島城が築かれ、その7年後高田城が築かれ、徳川家康の六男松平忠輝が入城し、高田藩が開府されました。その当時の行政範囲は、越後全域はもとより北信越の一部、陸奥の国(福島県)白河郷七万石まで及びました。
 その後藩主と領地範囲は変遷しますが、明治4年の廃藩置県まで、高田城は、まつりごとの中心として存続したのです。

 明治の時代になり、国が重要拠点として高田に、3000人の兵隊を送り込み、陸軍高田第13師団として昭和20年8月15日まで日本海側の守りを果たして来ました。

 以上のごとく、“高田”、“直江津”という名称は、江戸時代初期から昭和47年までの357年間、この地に生まれた者はもちろん、全国的に人々に親しまれ愛された伝統と由緒ある地名であったのです。

 それ故42年前合併新市名を命名するに当り、もっと時間を掛け、各界各層の市民はもちろん県外にすむこの地にゆかりのある人達の意見を求め、もっと慎重に市名を付けて欲しかったと、今でも私は心底残念に思っています。
 一時のムードに浮かれ深く考えもせず、上州と越後という意味の“上越”と紛らわしい“上越市”と命名した当時の市長、議会、行政、商工会議所、さらに高田直江津合併の提案者の最右翼である青年会議所の方々の責任は実に重いと思うのです。
 何故なら高田も直江津も、その後の市街地の衰退が何よりもそのことを証明しているのではないでしょうか。

 人が集まる公的施設を高田、直江津の中間の郊外に移すのは致し方ないとしても、過っての中心市街地からは、何ら変更無く高い固定資産税と都市計画税を取りながら、いまだ江戸時代そのままの道路幅で、車社会に対応しないまち造りを行っている現状を見ますと、政治の罪と言うしかほかありません。

 浅知恵の一部の集団が権力を握り、歴史や伝統を無視したまち造りを行うと、新幹線が開通して交通の利便性が向上しても、経済の発展もおぼつかない存在感も薄く個性も無いまちになってしまうのではないかと心配します。せめて新幹線新駅の駅名ぐらい歴史と伝統を表示する駅名が考慮されるべきだと思うのです。