去る2月22日、我々の市民まちづくり学習塾『雪下駄』の記念すべき第50回の勉強会に、大島グループ代表で高田の老舗料亭『宇喜世』の代表取締役社長である大島 誠さんから「日本の100年料亭と仲町」と題して講演をして頂きました。
大島 誠さんは、元は中学校の数学の教師だったそうです。縁あって企業経営の世界に入りましたが、今まで飲食店経営の経験は全くありません。しかし今彼は、“老舗の料亭の経営を立て直す”と言うものすごく難しい課題に取り組んでいます。お話しされた約1時間の中で再建の為の熱意がものすごい迫力で私たちに伝わって来る素晴らしい勉強会でした。
私は若い時、相撲界にいました。そして北海道から九州までの全国の町々を廻っていました。その時代は、そのまちの一流の老舗料亭は華やかで芸者さんも大勢いて、高度成長期も相まって本当に活気が有りました。
しかし今の時代、料亭で芸者を上げて酒席を楽しむお客は殆んど居なくなり、その結果、伝統と格式のある老舗料亭が廃業に追い込まれ、店仕舞する店が続出しているのです。
その中で大島社長は全国に残っている創業100年以上の料亭で、それも歴史的建造物をそのまま残して、その建物内で営業している料亭を捜し出し、連絡を取り合い、お互いの情報を交換し、日本の文化的財産の料亭を残そうと決意され、現在、全国を飛び廻りネットワーク造りに取り組んでおられます。素晴らしい発想と行動力です。
日本人客だけでなく、来日する外国人観光客を持てなし、日本料理、芸者さんの踊り、日本庭園など日本文化の“情緒と艶やかさ”を充分に味わってもらう市場を開拓しようと、大島さんはその熱い想いを国(通産省)にも訴え、財政的支援のルートをこじ開けようとしていることを、さすが元数学の教師らしく分析した営業数値を駆使してその可能性を熱く語ってくれました。
大島社長の心の中は、単に『宇喜世』の再建だけでなく、「このままでは仲町通り、高田中心部は寂れたまちになってしまう。強いては日本の伝統文化がダメになってしまう」との思いです。
昼でも夜でも料亭で和風ランチを楽しむ新しい客層の発掘。夏は飲めて生バンドが楽しめる屋台村を持つ料亭、大型観光バスが乗り入れる料亭など攻めの経営理念を持って全国の100年料亭のリーダーとして頑張っておられることが聴衆している我々にのひしひしと伝わって感動しました。
また大島社長は「世間は好き勝手な事を言いますが、金を出さない人、汗を流さない人の言う事を聞いても仕方ない。私は私の責任で行っているのです」と覚悟のほどを語っておられました。
我々市民や行政機関も地域全体でもっと応援の輪を広げて行かなければならないと思います。
「出る杭は打たれる。されど出すぎた杭はもう打たれない」と申します。地域の活性化に奮励努力している大島社長を“出すぎた杭”にしなければなりません。努力する人を後押しする気風のまちにしないと、折角の良い杭が腐ってしまいます。
今、上越は転換期です。大島社長にエールを‼。
長寿と言うのは大変喜ばしいことでありますが、今日本はいまだかつてない超高齢化社会を迎え、その分厚い壁にぶつかっている状態です。私たち人間は「老い」という面に接した時、今まで自力でできていた「当たり前の事」が出来なくなってしまった時どうするかと言いう事態に心穏やかではいられないと思います。全て他人の手を借り、自分は呼吸するだけの存在・・・自我の意識がある時、それは非常に耐えがたいものではないでしょうか。
昨今の老人福祉制度は以前と比べて格段によくなりました。しかしながら介護施設の現場は人手不足が慢性的になっています。川崎市での入居者を殺害すると言うとんでもない事件があり、犯人に対して同情の余地は何一つありませんが、これも人手不足から職員に過度に仕事が集中し、そのストレスが最悪の形で出てしまった事件ではないでしょうか?また、補助金目当てだけに施設を作り、入居者に劣悪な環境を提供し、その不正な利益を得る大悪な事をする施設・経営者もいれば、職員が単独、あるいは結託して高齢者の財産をかすめ取ったりする小悪な事をする現場の人間も存在しています。
「介護ビジネス」と言われ、これから益々必要不可欠になるこの市場は、単に市場原理に基づくやり方では行き詰まる事は目に見えています。経営が破たんして入居している人たちが追い出される・・・などと言う事もあれば、前に書いた様な利益追求でサービスは二の次、職員は入居者から搾取する事だけしか考えない・・・私たちが今後お世話になるかもしれないと言った施設がそんな恐ろしい施設であったら私たちはどうすればいいのでしょうか?
そう言った課題を考えた時、行政や関係機関に常に働きかける事がまず挙げられます。人手不足の解消、報酬の適正な設定、利用者・家族の負担の適正な設定・・・どれ一つがバランスをおかしくすると全てが瓦解する非常に繊細なものが「介護制度」です。
私は既に老境に入っていますが、市民から選ばれて議会に身を置いている人間として、この問題は常に訴え続けて行かなければなりません。しかしながら私一人だけでは偏った考えになります。老若男女問わず沢山の市民の皆さんから意見を聞いて最良と思われるアイデアを出していこうではありませんか?「老い」は誰にでも訪れます。自分だけ違うと言う事はありません。「こんなはずではなかった」と言う事がないように、皆さんで知恵を出し合いましょう。
障害を持って産まれた3歳の新井 礼人(あやと)ちゃんが、その障害を口汚く罵られながら120Kgの巨体の大人によって、およそ1時間半にも渡り殴る蹴るの暴行を繰り返し加えられ殺害されてしました。
純真無垢な何の罪も犯していない無抵抗の幼児を、何のためらいもなく殺害した暴力団組員の犯人を私はとても許すことは出来ません! やり場のない怒りで今でも胸が張り裂ける思いがします。
なんと礼人ちゃんは薄命な子供だったのか、あの痛々しい寂しい顔写真を新聞で見てからつくづく思うのですが、このような人の命を軽く考え、扱う人間が近頃 非常に多くなっているように思います。
また、川崎市の中学1年の上村 遼太君(13歳)の殺害事件も19歳の男が主犯格となって、実に惨たらしく残忍な暴力行為で痛め付けて殺害しています。
さて、新井 礼人ちゃんは母親が離婚して、俗に言う「ひも」の暴力団組員の男と一緒に暮らすようになりました。そしてその悪魔の男が礼人ちゃんを邪魔になり、結果なぶり殺したのです。
幼い3歳や13歳の子供を殺害するという犬畜生よりもはるかに劣る人間が多くなってきている今の社会の中で犯罪人を裁く機関はありますが、これらの原因を究明・追求する機関は残念ながらどこにもありません。
このような悪魔の化身を生まないよう公教育の重要性が再認識される中、人間形成の教育そのものの内容、指導方法、指導者の人格・人間性などなどについて誰も責任を持たないため、人命軽視の人間ばかり増え続けているのだと思います。
さらに現代の日本の司法の場において、犯罪者に対しての刑罰が非常に軽すぎるように思えてなりません。 殺害された被害者の御霊や想い、遺族の深い悲しみ・怒りなど被害者側の事をあまりにも軽視ししすぎています。
明治維新以降、特に戦後になってから人権、人権と義務や責任を放棄した権利や個人主義ばかりを叫び主張し、公教育の場においても積極的に取り上げ学ばされてきました。
日本国憲法におけるいわゆる「国民主権」「基本的人権」を錦の御旗のごとく扱い学ばされました。 しかしながら、一般の人々はこの「国民主権」「基本的人権」の本当の意味や恐ろしさを知らないままでいるのです。 私たちは、知らず知らずの内に反日左翼思想によって洗脳・愚民化されてきているということに早く気付かなくてはならないのです。 それら種々の要因があのような犯罪者を作り上げてきていると言っても過言ではないでしょう。
国家の立法・司法の当局・授権者たちは被害者側の事をより重く考え、現行のユルイ法律を改正すべきだと思います。 時には罪人に厳しすぎるくらいの法の適用、刑の執行がなければ、こう言う犯罪は無くならないでしょう。現状を放置して行けば、ますます増えるばかりだと思います。
今日、豊かになりすぎて「善」「悪」の区別が出来なくなった現代社会の中で、貴方は本当にこのままの状態で良いと考えますか?
「殺害されたお二人の子供は運が悪かった」で済ませて良いのでしょうか?
私はこれまで述べた事の根本原因はやはり『教育』にあると思っています。 日本の教育そのものが、このままで良いとは決して思っていません。
この素晴らしい日本の国の内で「異常」が当たり前になり、人々がそれを何とも思わない日常になることがとても心配でなりません。
このブログをご覧になっておられる皆様はどのようにお考えになりますか?
最後に、私たち一人一人は必ず誰かの「息子」であり「娘」なのですが、これは絶対的に間違いのない事実です。
さて、私たちは何故「息子(ムスコ)」「娘(ムスメ)」というのでしょうか? 自分が産んだり妊ませたりしたからそう呼ぶのではありません。
この宇宙は天御祖神(アメノミオヤ)の「初生(ウイ)の一息(ヒトイキ)」により創られました(宇宙創成神話より)。 したがって、この宇宙全体は神の息に満ちています。
「ムスコ」「ムスメ」の「ムス」には、「産霊(ムスヒ)」「結(ムス)び」「掬(ムス)ぶ」という義あります。これは産日(ムスヒ)の神々と密接に関係するのですが、その事については今は触れません。 話を戻しますが、私たちは自分の家系図を遡って行けば神に繋がっていきます。遥か遠いご先祖様が臨終の際に吸い込んだ息、つまり神の息を誕生する時に”オギャアー”と言って吐き出し、また死ぬ時は、自分の吸い込んだ息を「息を引き取る」という形でさらに子孫に伝えていくのです。このことから「ムスコ」「ムスメ」と言うのです。したがって先祖(過去)から子孫(未来)へ「息通し」=「生き通し」をしている事なのです。
この「子孫(うみのこ)の弥続(いやつづ)き」の連続を断ち切ってしまう事がどれほど恐ろしく罪深いことか、知っていたならば、人を殺害するなどという事は決して起こさなかったかもしれません。
私たちは、一人一人の命の重さ、尊さをもっと深く理解し、その人の背後に繋がる多くの「ムスヒ」を考え、意識し、尊重し、感謝と礼義を持って人と関わっていかなければならないと思います。