[ 2016年8月 ]
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幕末に会津武士の存在が無かったなら、『武士道』という思想がこれほど明確に立証はされることはなかったでしょう。
会津武士の精神の根底は神道と儒教を一体化した会津藩独特の報恩思想にあると思います。その心の根源は、藩租『保科正之』の異母兄の三代将軍家光への恩、しいては徳川宗家への報恩思想となり、会津藩の精神的支柱となったものと思います。
正之は、家光から幕府全般を託されため、23年間も国元には帰れませんでした。しかしその間にも会津藩の国力は増大したのは、正之の施政方針に従い藩政を取り仕切った名家老『田中正玄(まさはる)』が居たからでした。正玄が亡くなった時、藩主正之は「彼は政治を私したことは無かった。なぜ天は私より先に彼を逝かせるのか」と最大級の賛辞を贈り嘆いています。
田中家はその後も家老を輩出し、正玄から数えて五代目に『田中玄宰(はるなか)』が家老となり、会津藩の藩政改革を断行し、経済、軍事、教育、精神を叩き直しました。その中で有名なのが「藩士の子弟を文武両道に於いて鍛えるために藩校を起こす」と言う事でした。
彼は、藩校の名を『日新館』とし、10歳になった藩士の子弟に、読み書きそろばんから、軍事学、天文学、さらに人間教育まで徹底的に教え込みました。当時の日本の藩校の中でその内容の充実、レベルの高さは群を抜いていました。そしてその教育の精神的支柱となったのが「ならぬものはならぬものです」で有名な『什の誓い』でした。それが忠孝心が厚く、頭脳、器量、技術、武芸、どれをとっても最高の武士団を形成して行ったのでした。
その後、徳川幕府は、困ればすぐ会津藩を頼りにしました。会津藩は藩租からの報恩思想を愚直に守り出兵を繰り返しました。その為、多くの人命を失い、財政捻出に辛酸の思いが有ったとの記録も残っています。しかし会津武士はお互いの結束力で難局を乗り切っています。
幕末時、福井藩の松平春嶽が逃げた天皇家と京都の治安を守るための京都守護職の役に警備隊を出陣させました。しかしこれが戊辰戦争での会津藩の悲劇の始まりでした。
明治になり、賊軍であるはずの会津藩から国政、軍事や教育の分野に沢山の人材を輩出されています。教育の効果は今すぐ役に立つものではありませんが、20年後、30年後、100年後花開いてくるという良い例です。
会津武士道は決して滅びること無く、現代まで脈々と受け継がれています。そしてその地域の教育の在り方、考え方、習慣、気風、歴史、風土の違いを学ぶことが大切です。
今年も10月15日、上越市の武道を学んでいる子供達を会津藩校『日新館』につれて行き、会津武士の毅然とした哲学を学んで来ます。
「男が本来の男らしさを失い、女々しくなって来ている」と言われてから随分久しい時間が流れています。
最近の例では、前東京都知事の“せこ過ぎる政治資金の私的流用疑惑”と“嘘くさい言い訳の数々”が直ぐ頭に浮かびます。どこにも九州男児の心意気やきっぷの良さを感じることは出来ません。
さて現代社会は何故“男力”が弱体したのでしょうか。私が少年の頃の昭和20年代は、各町内、各学校野中にも格好の良い男らしい『ガキ大将』が必ずいたものでした。少し「ほっこ」だが「喧嘩は強い。子供心に私も憧れていました。
彼らに共通する資質が有りました。
① 女子や年下の子などの弱い者いじめは決してしない。逆に弱い者いじめする奴をやっつける男だった。
② 自然に備わったリーダシップを持ち、仲間をまとめ、年下の若輩者の面倒を良く見ていた。
③ 仲間の中では勇気と正義感が強く、一番気の強さを持っていた。
④ 例え家柄や学校の成績が良くても、そんなこと少しも鼻にかけること無く、仲間皆なに公平に接していた。
⑤ 卑怯を嫌い、頼り甲斐のある兄貴分だった。
確かに現代は男が男らしさに魅かれる人がいない社会になっています。その一因として行き過ぎた戦後教育にあると思います。敗戦の反省からか日本の良き伝統、文化まで否定されて来ました。
そして安易な優しさや平等が優先されます。しかし男らしさを背景にした優しさでなければそれは打算に満ちた下心のある優しさかも知れません。
今回のリオオリンピックの選手(男子選手も女子選手も)はまさにその気概からして、日の丸を一番高い処に掲げんと挑戦して行く日本の恰好良い『サムライ』でした。特に柔道、レスリングの格闘競技に「名こそ惜しけれ」の武士道精神を見ました。残念ながら、当上越地区からは世界に挑戦できるアスリートが出ていない現状は寂しい限りです。
政治の世界では、この秋の新潟県知事選挙、来年の上越市長選挙が有り、やがて衆議院議員選挙が予想されます。我々地域の為、リーダーとして頼りになり、力強く行動する恰好良い男の出現を望んでやみません。
私は毎年、終戦の日の8月15日に高田公園の忠霊塔で開催される『戦没者慰霊祭』に毎年出席して来ました。しかし昭和20年の終戦から71年が過ぎ、遺族の方々の高齢化や、はたまたお亡くなりになられたりして、年々参加者が減って来ている現状が有りました。
国家と家族を守るため、尊い命を捧げ散って行った英霊の御霊に哀悼の意捧げ、加えて「あなた方のお蔭で今日の平和日本がある」と云う感謝の意を表し、冥福を祈ることは、今日生きている日本人にとって当然な行為です。さらに私は、この8月15日を、国防や国家観をを考える大切な日であると受け止めて来ました。
日本の近代史、現代史に於いて、明治時代の日清・日露戦争。大正時代の第一次世界大戦への参戦。昭和に入ってからの満州事変勃発から大東亜戦争の終結までの事象は、我々日本人にとって永遠に忘れてはならない歴史なのであり、恒久的平和構築のための貴重な研究材料です。
しかし昭和20年以後の戦後は、敗戦と云う結果からの反動からか、日本人の大切にして来た国家観、歴史的価値観や精神までも否定し、やがて戦没者に対する祈りさえも関心が薄れ風化して行っている現在の世相に、私は強く危機感を持っていました。
そんなことから今年から市民参加の行動を起こし、保守政治塾『琢磨の会』の方々に声を掛けたり、また私と志しを一緒とする方々にも出席をお願いして、21名の方々が参集され(慰霊祭出席者総数は70名)英霊に手を合わせ冥福を祈って参りました。


『琢磨の会』では“良いものは良い。ならのものはならぬ”と日本人が本来持っている「情」と「義」を2か月に一度勉強会を開催。同志が集い切磋琢磨し、供に研鑚を積んでいます。
毎年8月15日、午前10時より『戦没者慰霊祭・物故者法要』は開催されます。是非ご参加下さい。