えいじま義雄の蓮風便り

「蓮」の花と薫りのように清く「義」一筋に政治の道を貫きます

2013-04-23 08:43:04.0 2核1モールの完成と市内中心部の活性化


旧大和跡地に3月28日、そして旧長崎屋跡地に4月12日、それぞれショッピングモールがオープンしました。関係各位の努力に心から敬意を払い、また高田中心部が再び活気に満ちあふれることを願うものであります。

 この事業は国の“中心市街地活性化法”に基づき、32億円の税金を投入し、上越市も“あすとぴあ高田”の5階部分を4億円で買い取り、“ミューゼ雪小町文化交流施設”として開設し年間1951万円の維持費で運営します。議会はこの文化交流施設の維持管理運営が適正に行われているのか厳しくチェックし、不備があれば適時改善指導を行っていくつもりであります。

 かつて同様な施設として“旧雁木通り美術館”がありましたが、市街中心部活性化に殆ど効果がありませんでした。原因の一つとして所長を始めとする管理責任者が行政側の都合で猫の目の様に変わり、サービス業としての経験も意欲もない役人が腰かけ程度にいる為、集客努力をせず、赤字になっても市民の税金を投入してとりあえず運営しておけばいいという考えが連綿と続いていました。この雁木通り美術館に限らず、上越地域には同じような感覚で建設された施設がたくさんあり、残念ながらその殆どが赤字であります。そしてその赤字補填が市民の税金でずっとなされています。銀行も「市民の税金が担保だからいくら貸しても焦げ付く事はないから大丈夫」という事で殆ど無尽蔵に融資を行っています。民間ではこんな事は許されません。一例で言えば株式会社において赤字が続けば経営陣は株主総会でその責任を糾弾され、地位を追われます。場合によっては背任等で刑事罰も科せられます。私はこれらの施設には民間経営に長けた人物を迎えて民間の発想で行わなければならないと考えています。

 “自分の財布で勝負を”しない役人を責任者に据えていれば数年を経ずして他の施設と同様の運命を辿る可能性は大きいです。議会も厳しい目を向けていますが、やはり民間経営者の知恵と経験を入れる必要があると思います。公共福祉サービスはある程度の採算を度外視する事は必要ですが、根本的に利益を出すという仕事に役人は不向きです。

 本町通りの2核1モールの新しい建物が本町通りに活気を取り戻す起爆剤になってほしいと思います。高田中心部は400年前の高田開府の街並みを守っている歴史ある街並みですが、一方で車社会に対応していないという面を持っています。郊外のショッピングモールにどうやって対抗するのか?中心部の方々(特に若手の方々)の結束と努力に期待しています。


大和上越店跡に「イレブンプラザ」がオープン
http://www.joetsutj.com/archives/52024785.html
再開発ビル「あすとぴあ高田」が本町にオープン
http://www.joetsutj.com/archives/52027296.html

2013-04-10 08:28:08.0 納谷幸喜君(大鵬関)と私の思い出

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※納谷幸喜君(大鵬関)と私(蔵前国技館 1月場所) 

昭和31年に彼(納谷幸喜君)は相撲取り、私は呼出しとして日本相撲協会に入りました。同期でしかも同じ昭和15年生まれの17歳、青春の真っただ中での出会いでした。彼は当時、蔵前にあった国技館の最上段の鉄骨座席に毎日ポツンと座り、兄弟子の相撲を見ていました。その体は色白で痩せており、ヒョロヒョロの電信柱のようでした。その姿を見て、私は彼が北海道の母親を思い出している様に思えました。

 彼には私の方から話しかけ仲良くなり、アンパンを買って分けて食べ合ったり、海水浴や映画を見たり、地方巡業でも会っては雑談で修行の辛さを紛らわし、束の間のホッとする時間を共有しました。

 当時はまだ、「ハーフ」というという言葉はありませんでした。納谷幸喜君は父がロシア人、母が日本人の混血児でした。父親がロシアの元軍人で、戦時中にソ連のスパイという容疑をかけられ憲兵に連行され、二度と家族の前に姿を見せることなく、戦後、母とともに命からがらサハリンから北海道へ引き揚げてきました。そして北海道での生活でもロシア人との混血児という理由で母方の親戚知人、周囲の人たちからも偏見と差別にあっていたそうです。そして相撲界に入ってもその偏見差別が残っていました。納谷君はそれをバネにして毎日必死に稽古に取り組んでいました。地方巡業では日の昇らぬうちから起床して、稽古とちゃんこ鍋の番、兄弟子の身の回りの世話をする雑用も修行の一環でした。

 彼が十両に昇進した時、“大鵬”という立派な四股名を当時の二所ノ関親方が付けて下さり、持ち前の身体の柔らかさで怪我もなく瞬く間に出世し、「巨人・大鵬・卵焼き」と世に言われ、日本中の子供たちからの憧れの的になり、通算優勝32回という昭和を代表する大横綱になったのは世間で知られる通りです。

 彼はそんな大横綱になっても、若い時の差別や偏見・そして苦労を忘れず、立場の弱い人たちに対して常に気配りの出来る器量人でもありました。私も彼が横綱に出世しても、彼は私との友誼を忘れず、銀座や赤坂の一流店によく連れて行ってもらいました。良き青春時代の思い出でした。

 今年の1月19日に大鵬関が亡くなりました。私が非常に残念なのは、日本国政府が生前に彼に国民栄誉賞を贈る事が出来なかったことであります。松井秀喜氏が30代でそれも生きているうちに贈られると言う事をふと考えると、その理由は前述の偏見と差別が最後まで尾を引いていたのではないかと思うに及んで、非常に悔しい思いを抱きます。

 政治に携わる人間がやってはいけない事は、国民を上から目線で、差別や偏見で見ると言う事です。民主党の3年4カ月のやりようを見ていると、思う節がいたるところにあるように感じました。「差別や偏見も自由のうちだ」という人もいるようですが、それはあってはならないと思います。

 納谷幸喜君こと大鵬関とは同期の仲でもあり、大恩人でもあり、心から彼に対してありがとうと申し上げ、謹んでご冥福を祈る次第であります。

2013-04-04 11:15:44.0 かつての高田開府300年の盛大なエネルギーを検証し、400年祭を考える。

 来年は、慶長19年(1614年)に徳川家康の六男松平忠輝公が高田城に入城してから400年目の記念すべき年です。

 100年前の大正2年(1913年)の秋、9月13日~14日の両日、中田原練兵場は数十万の人ひとで溢れかえりました。
 その日、白戸栄之助が操縦する県内初の展覧飛行が行われ、飛行機のゴーゴーというエンジン音とプロペラの風を切る轟音に観客は熱狂しました。初めて新しい文明に接した越後人は度胆をぬかれたことでしょう。売店では飛行機の模型がそれこそ飛ぶように売れたそうです。

 開府300年祭の7日間の期間中、鮮やかな提灯、紅白の横断幕、さらに当時では珍しい赤・青・白の電気灯で彩られた大アーチ型の門など、高田の街がまるで化粧したかのよう華やな雰囲気に包まれました。雪深い何事にも消極的で地味な田舎の城下町では想像も出来ない企画や演出がたて続きに盛大に実行されていきました。
 
 日枝神社の祭典から始まり、歴代高田藩主の法要、さらに講演会にはよくぞこんな大物が来て下さったと思いますが、明治文明近代化の推進者でであり、政治家として後に内閣総理大臣にまで上り詰め、教育者として早稲田大学総長であった大隈重信公を迎えて、高田市内3ヶ所で講演が行われました。
 1回目は一般市民に「日本と地方の行く末」を語り、2回目は将来を背負う若い青少年に語られました。その大隈公の来高に際して前島密翁のご尽力があったものと思われます。
 そのほか300年祭期間中は、榊神社での法宝物展、教育品展、生産品の品評即売会、さらに華やかな提灯行列、田端芸妓連や青年団の踊り舞台、城下町らしく剣道、柔道、相撲をはじめとする各種武道大会が催され、夜には1週間毎日花火が打ち上げられる賑わいが演出されました。
このイベントの総指揮官は初代高田市長の倉石源造氏です。

具体的な数値で見ると

 期間中高田来訪者 23万8750人
 期間中高田駅降車人数 8万2750人

期間中収支

予 算 4,000円(現在価格8,000万円)
総 収 入 9,500円(1億9,000万円)
総 支 出 8,000円(1億6,000万円)
差引利益 1,500円(3,000万円)
 
となり、利益の1,500円は本町3丁目の市役所新設のための資金に充てられたそうです。
市内の経済効果を見てみますと、旅館、料理屋、貸席店、食堂そば屋、人力車、お土産屋などに落ちたお金が10万円(20億円)という巨額の金額になりました。
 また高田出身の人達が「故郷のために」と、東京、大阪はじめ全国から7,700円(1億5,400万円)もの寄付金が寄せられたそうです。

 大正2年頃は日露戦争が終わってから10年近くが経ち、世の中も落ち着きが出て、地方において殖産の機運が高まって来た頃でもあります。
 上越地内では金子伊太郎氏や国友末蔵氏らの尽力により関川水系の発電所が新設されたり、頚城地方では地下資源の開発が進められました。
 また明治41年には陸軍第十三師団の誘致に成功し、それらのことが相乗効果を生み雇用を増やし、景気を拡大して行きました。
 また当時の行政、政治家、そして一般市民のやる気と結束力が大きなエネルギーを生み、開府300年祭を大成功させたものと思います。
 この成功は、その後の高田地区の基盤を造り、私たちに残してくれた歴史的事業であったと思います。

 ひるがえって開府400年を来年に控えた今日、景気も何となく薄明かりが感じられるこの頃ですが、新幹線が開通する町としてエネルギーが感ぜられず、400年祭を取り仕切る本当の総指揮官は誰なのか見えて来ないのが寂しい限りです。